暗転、そして、
「その例えにのっかるならね、私は、グラスを割っちゃったのよ。倒したのではなくて――だからもう、あっちへいって」
「グラスは、割れてなどいない」
「いいえ、私は割った」
「だってアキは、生きています」
「私は――」
私は死んだって言ってるじゃない。そう言いかけながら、突如としてある感覚を認知し、言葉を途中で切ってしまった。
感覚の認知。この行為には、少なくとも五感のうちのどれかが必要だ。光を認識する「視覚」。音波を感じる「聴覚」。味覚受容体への刺激である「味覚」。鼻腔の粘膜が感知する「嗅覚」。
「――今」
最後のひとつは、「触覚」。
それが今、僅かに刺激された気がしたのだ。
例えるならば、意識のみで漠然とした無の世界が、急速に実像を結んだと言っていい。
「人差し指が、何も無い虚無の闇に、浮かんでいます」
『彼』はまるで催眠をかける暗示のように、ゆっくりと区切って言葉を紡いだ。
ゼロに近いほど希薄に広がっていた私の粒子が、中心に向かって集束していくような、不思議な感覚だった。濃い粒子がぶつかり合って点が誕生する。そこを起点として、柔らかく小さな、手の平で隠せるほどしかない肉塊が形成されていく。その上を硬い皮膜が覆ったかと思うと、爪になった。
「指先」
私はつぶやいた。
第一関節まで、五本のうちのどれかは分からなかったが、今まで何も無かった場所に指が浮いている。『彼』が「人差し指」と先に言ったので、人差し指に違いない。
「これは、私の指なの?」
「そうですよ、そうでなければ誰の指ですか」
見えはしないけれど、貴族の紳士がやってみせるように、優しく手を差し出された気がした。
虚ろな夜の空間と、はかない月の光が共鳴し、無限に広がる美しい奥行きをかもし出すように。その手をとりさえすれば、悲しいだけの暗闇から引き上げられる予感がした。
「アキは、生きています」
「――生きて、る」
私は、声を追うように小さく唱えた。
文字通り空っぽになっていた心中に、仄かな灯かりが差したようだった。
「だから、物語は始まります」
私は、手を取った。
それに合わせて、見えもしないのに、その誰かが優しく微笑んだような気がした。
バチン。
「触覚」とひっくるめて痛覚も失ったはずなのに、神経を掴まれるような、不快な痛みが襲う。我慢できないほどではなかったが、私は、うう、とうめいた。
「次は左手を」
言われるままに、私は痛みに堪え、左手を持ち上げた。持ち上げてから気付く、私は意識だけの存在で、実体なんて無かったのに。
それは――闇の中から腕が浮かび上がるような、不思議な感覚だったのだ。
真っ黒に塗りつぶしてしまった画用紙に、薄く溶いた白い絵の具をこぼしたようだった。霧の濃いの闇夜に浮かぶ、錆びれかけた灯台が放つ灯火のようでもあり、蛍の幼虫が警戒色として放つ、淡い発光にも似ていた。
「さあ、掴んで」
言われるまま私は、不確かな存在でしかない自分の左手の、拳が閉じるようにと頭の中で命じる。左手は命令に従順に、何かを掴んだ。
差し出されて掴んだ右手と、縋るように掴んだ左手。暗闇の中には私の手首から先が、切り取られたように浮かんでいる。それを、声の主がしっかり握ってくれている。不意に、その手に力が加えられた。
「いっぱいに満たされたグラスは、喉を潤すには十分であるが、それ以上何も注ぐことはできない」
両手を取られ、黒い水から引き上げられる。腕から始まり、肩、頭、胸、腹、下肢――順を追って、ぼんやりとした輪郭を持ち始める。
「空っぽのグラスでは、喉が渇くばかりだが、何を注ぐかを選ぶことができる」
同時に、今まで掴んでいたはずの何かが、私の中に吸い込まれて内包されてしまったような、奇妙な一体感に包まれた。離脱していた霊体が、元通り身体に収まる瞬間のような、回帰するような一体感だ。
引っぱりだされた部分が、次第にほんのりと熱を帯びていた。温感の存在を認知した、体温が戻ってきたのだ。
頬に髪が触れた。ショートヘアだった髪は長い時を経たはずなのに、何故か少しものびていなかった。
「陽光をたっぷり含んだ水面。白く浮かぶ一面の雪。夕闇のグラデーション、宵の一番星。夜を駆ける妖精のように空をひっかく流星群――」
『彼』は、この世の綺麗なものを、次々に挙げていった。「空っぽのグラスに入れるのは、どれにしよう」と楽しそうだった。
そんな綺麗ものばかり、壊れかけのグラスに入れるに相応しくない。そうは思ったが、叱られるのもしゃくなので黙って聞いた。
「タイムリミットは『月の酩酊』――失われたグラスの中身を取り戻しに」
月が酩酊するというのがどういう意味なのか、どういう状態なのか、やはり気になった。酩酊という単語を浮かべても、「酒をたらふく飲んで気持ちよく酔っている」というイメージしかわかない。
あんなにストイックに我らを見下ろす月が、泥酔? まさか、と思った。新月か、はたまた月蝕だろうか、と予測してもみたが、安直過ぎる気がしたので、もう考えるのをやめる。提示されたタイムリミットの本当の意味を、私は知らないままでいよう。
私は、その部分には触れないように、こう返した。
「物語は始まるのね」
私の答えに、『彼』は「そう!」ととても嬉しそうだった。
その瞬間、目の前に光がはじける。眩しくて鼻の奥がツンと痛んだ。驚いて息を吸うと、喉の渇きを覚える。空気は冷たくて、ぴんと張っていた。
私は忘れかけていた感覚の奔流に押し流されそうになりながらも、自らの存在を取り戻したことに、小さな喜びを感じたのだ。
第一章 スカイフィッシュは大気の亡霊である
私は棒立ちだった。私は、いつまでもそのままで居たかった。
『ねえたん』
そう呼ばれても、靴底はベタリと砂利の混じった地面に吸い付いたまま、まぶた一つ、指先一つ動かさず立っているだけ。その様はまるでマネキンのようでいて、しかし決定的に違うのは、笑みの一つも浮かべていないことと、その棒立ちが誰の役にもたたないという二点だろう。
身に降りかかったいくつかの出来事は、複雑に絡み合ってはいるものの許容と予想の範疇であり、自分には全くこたえていないと思っていた。心にダメージはあったとしても、会心の一撃は回避しているという根拠のない自信があったのだ。
『毒、だった』
私はつぶやいた。
憎しみは、毒が身体を侵すかのようにじわじわと拡がっていき、ついには発現した。想像していたよりずっと、私は浅はかで弱い生き物だった。そのことに密かに落胆する。
『ねえた』
猫が鳴くような舌足らずな発音で、雪子は”いもうと”としてのスタンスから私を呼んだ。何度も。そして、私は何も答えずにいた。
三歳になったばかりの小さな手が、私の方に伸び、そして空をつかんだ。同じく小さい柔らかそうな頬は、とても白くて綺麗で、アスファルトのしっとりとしたどす黒さと、奇妙な対比を見せている。
『ねえちゃん! 轢かれてしまうよ!』
遥か後方、市営団地の敷地内で、孝平が叫ぶ。私の視線は雪子の方にのみ注がれていて、かえりみることはしない。