暗転、そして、
それは、世界が暗転する、まさに直前のことだった。
『 』
何かをしきりに訴える、誰か。
しかし何を言っているのかは分からない。聴こえなかったのだ。
◇◇◇
『ここ』は最初からずっと、暗く、何も無かった。
だから、心細くて歌を歌ったり、音はしないと分かっていて耳を澄ませてみたり、九九を唱えたり、暗記させられた古文の一節を暗唱したり――元始的だが、数を数えてみたり。そうして既に、永遠にも思えるような時間が流れていた。数ヶ月、いや、数年だろうか。
『ここ』に放り込まれた当初は、もう年の暮れで、街は湿るような静かな寒さに覆われていた。しかし今は寒くない。
私は寒さなど微塵も感じることは、もうない。
寒さはもとより、空腹も、喉の渇きや、痛みさえも感じない。感じる資格はなくなってしまった。
『 』
誰かが、何かを訴えている。同じ台詞を何度も、繰り返し。
それはまさに、『ここ』に放り込まれる寸前の光景だった。
『 』
暗闇に放り込まれるほんの一瞬前の、そのことばかり、ひとしきり巡らせる。
不意に、一瞬だけ。自分以外の誰かの存在を、認めた気がした。
ここに来てから初めての感覚に、私は怯える。
「誰?」
私は闇の向こうに問いかける。
延々と続く果てない暗闇の中、何かの存在。
姿が見えたわけではない。私の「視覚」は丸ごとなくなっているから、気配の正体を眼球と視覚野で直に確認することはできないのだ。
「誰かいるの」
もう一度訊き、そして黙った。
「――こんばんは」
闇の中に透きとおった声が響き渡る。こんばんは、ばんわ、ばんわ――と、反響がやむのを待ってから、その声はまた、問いかけてきた。
「初めまして、こんばんは。お嬢さん」
答えがすぐに返ってきたので、誰かいるのかとか、幻聴だとか気のせいだとかを逡巡し、勝手に落胆する手間が省けた。ずっとここにひとりぼっちでいたから、例え僅かの間であれ話す相手が欲しかったのだ。
「きみは誰」
『彼』の声は、透き通っていて、少し高かった。
「さあ、誰でしょう――でも、僕のことより先ずお嬢さん、貴女のことを」
問いに答えが返ってくることを、私は心底「嬉しい」、と感じている。それを表現する為の手段がないのがもどかしい。
私はもはや「聴覚」をも失っていた。しかし声はするすると直接頭の中に滑り込んでくる。酷く嬉しい。何故だろうなんて考えるのは先ず面倒臭くて、単純に嬉しいとだけ思うことにした。
「貴女の名前は? お嬢さん」
「アキラ――水晶の晶で、あきらと読むの」
「では、僕は貴女を、『お嬢さん』ではなく、『アキラ』と呼ぶことにします」
「アキがいいわ」
「いいですよ。アキ」
その存在は、緩やかな口調で私を呼んだ。
呼びかけに対し、私は「はい」と短く丁寧に、認可の意を表す。
名を呼び合うは親しみの表れ。そう応じてみて私は、無性に『彼』の名前が知りたくなった。
「貴方のお名前は?」
私は訊いた。私があっさり答えたのだから、『彼』も躊躇なく答えを返してくれると思ったのだ。
しかし、予想と違う反応が戻ってくる。
「おしえられない」
「え?」
「おしえられません、アキ」
どうして、と思った。
「僕の名前にはね、呪いがかかっていて、それを聞いてしまったらアキは、死んでしまうんですよ」
「私、今、死んでいるのと同じよ」
「滅多なことを言うものじゃない、アキは僕と、話しているじゃないですか」
「死んでいるもの」
永い間、この虚無の闇にひとりだった。私の言葉は誰にも届かない。誰の言葉も私は受け取らない。聴こえないし、感じない。感じる資格がない。
「生きています」
「嘘」
「嘘じゃない。人は死んだら終わりです。アキは心の機微を、まだ失ってはいないじゃないですか」
心を失っていないなどと言われ、私はどきりとした。死んでいると諦めていたからこそ――自分が『死んでいる』と定義し続けることで耐えてきた孤独感が、ぎしぎしとこじ開けられていく。
「孤独を感じるのは、生きているからでしょう?」
心を読んだかのように、『彼』は言った。その口調は唄うようだった。
私の身体は「視覚」、「聴覚」をはじめとして、全ての感覚を失っていた。五感そのものが、今はもう存在しないと言ったほうがしっくりくる。そんな私だから、『彼』が何なのか、どんな姿をしていて、どこに立っているのかさえ分からなかった。
そして、私が反応を示すより先に、『彼』は更なる言葉を紡ぎだしていた。
「どうして、『いもうと』を殺そうとしたんですか」
『彼』の声が、突然遠くなったような気がした。そのフレーズは、『ここ』にやってくるまさに直前のことを、その情景を、ありありと思い起こさせるものだったのだ。
心が揺さぶられる。
思い出したくない情景を、閉ざしていた記憶が強引に呼び覚まされる。
黒い平面に、ひとり取り残された幼い少女。
少女は私の「いもうと」で、私は「あね」だった。
弟が叫んでいた。
私は黙って立っていた。
弟は叫び、走りだした。
空が回って、世界が揺れた。
アスファルトに赤い色味が絡みつく。
突如として訪れた虚無の闇。
ストロボのように次々と、思い出したくない映像が蘇っては消え、蘇っては私を引き裂いて、粉々にする。
「なんで……それを知ってるの」
「見ていたから」
「何を! どこから!」
あの情景を第三者が目にしていたなんて、吐き気がする。今この瞬間まで、現れた話し相手に喜んでいた浅はかな自分が、心底憎らしくなった。
「答えて欲しい、アキ――どうして、『いもうと』を殺そうとしたんですか」
『彼』は、ストロボ写真のうちのひとつを取り上げる。奪って破り捨てたかったが、意識のみの存在でしかない私に、その行為は無理だった。
「殺そうと、したんじゃない」
あの日はやけに冷えたから、「いもうと」は白いマフラーを巻いていた。
空は、高く青く、突き抜けるようだった。
アスファルトはどす黒く、私の心と同じだった。
散る寸前の木の葉は、紅くなりそこねて、こげ茶色にくすんでいた。
「消えて欲しい、と、思ってしまった」
闇の中で、私はそれを後悔した。繰り返し、繰り返し。独白を吐けば、同じ部分ばかりリフレインされた。痛くて痛くて寂しい部分ばかりが、意図もしないのに勝手に響き渡る。
そんな中で私はひとりぼっちだった。
「アキの心、グラスの中。中身がこぼれて空になっている。その状態は君が言うように、”死んでいる”のに少し似てる」
名前も知らない『彼』は、沈黙の暗闇でうずくまってしまった私に、そう、言葉をかけた。
「グラス――」
質問に満足な答えを返せず、私は『彼』の言葉をそのまんま繰り返す。
「アキはグラスを倒してしまって、そして中身を全てこぼしてしまった。だからこんな悲しそうなんだね」
どこかのカウンセラーのような、へたな例えだと思った。『彼』のその真意が一体何なのか、この時の私に類推するだけの余裕はなかった。
「きみは、何がしたいの」
弱々しく尋ねる。