暗転、そして、
私は闇の中でそうつぶやいていた。そして、最期に気付いて良かったと安堵する。消えてしまうのを覚悟もした。
しかしそのとき既に、言いようのないひどい違和感が私の中にあったのだ。
『知ってたんだね。苦しめてごめんね。気付くことができていれば良かったよ、孝平』
頷き、答えを返すこと。最悪のシナリオを回避できなかった後悔が滲んではいたが、ここでやっと、私は自らの心残りを果たせたことになる。
既に私の世界は暗転していたが、気付いて言葉を返せただけで私は良かった。いいはずだった。
『――気付きたかったよ。あんなことになる前に』
まるで、熱に浮かされるように、私はつぶやいていたのだ。
「あんなこと、に」
回想から逃れ、今度は現実の世界で私はつぶやく。
世界が暗転して『あの場所』に放り込まれたとき、私の中には事故の記憶がくさびのように残っていた。じっと私を苦しめ続けた。強烈な色彩を伴う事故の記憶。
しかし、私が本来気に病むべきだったのは、雪子と、そして孝平の気持ちを踏みにじってしまったことのはずだ。どうしてこうも事故の記憶ばかりがフラッシュバックするのか、それが違和感の正体だった。
私はスカーレットを庇い、超音速で突っ込んできたリリーに身体を砕かれた。しかし、身体は砕けていなかった。
痛みはあったが砕けなかった。
私の身体は、砕けなかった。
「私は、本当に――事故に遭ったの」
私の身体は衰弱しているものの、傷も、傷痕さえ見られなかった。絡み付いて私を縛っているのは点滴だけで、おそらくはなから昏睡してなどいなかったのではないか。
病室に飾られたクリスマスツリーは、月が湛える光を受け、金粉を薄く振りかけたような安っぽい輝きを放つ。
サイドテーブルに置かれた卓上カレンダーは師走を知らせていたが、私の記憶が正しければ、西歴は事故当時から動いていない。
暗転から復帰した私の目の中で、事故の光景がストロボ写真のように再生され始める。
暗転した世界は――私たちの、命を賭けた寸劇は、ついにその時を迎えたのだ。
反転の瞬間を。
◇◇◇
私は棒立ちだった。私は、いつまでもそのままで居たかった。
『ねえた』
雪子が私を呼ぶ。
『ねえちゃん! 轢かれてしまうよ!』
遥か後方から、孝平が叫ぶ。孝平がいくら走ったところで、雪子の死を救うことはできない。間に合わない。
『ねえた』
雪子が間近で私を呼んだ。
『雪子! アキねえちゃん!』
孝平が遠くで雪子を呼び、私を呼んだ。孝平がいくら走ったって間に合わないはずだった。
そうだ――ここからだ。
私は再生中のストロボ写真に止めの手を入れる。
暗闇の中で視ていたときは全く制御できなかったが、ここでは写真はピタリと静止する。写真の中の私が、ふらふらと車道に立ち入ろうとしているところだった。
「これは――」
孝平は、いくら走ったって間に合わないはずだったのだ。
私は一枚ずつ、写真をめくっていく。車道に踏み入った私が、雪子に手を伸ばす。このあとの私の記憶では、彼女の腕を掴んで、投げるように歩道に突き出したはずだ。そして轢かれたのは私だ。しかし、写真はそうはならなかった。
私の手が雪子を掴む寸分前、別の誰かがその間に割って入ってきたのだ。
「そう、だわ」
孝平は、間に合わないはずだった。自分も助かるつもりだったならば。
雪子が轢き殺されるか、私が身代わりに轢かれるかの二者択一を、孝平は”自分が助からないこと”によって回避したのだ。
割って入ってきた孝平が雪子の身体をすくい上げるように車道から投げあげる。私はそれを呆然と受け止めた。バランスを崩した孝平の身体が車道の方へ傾いて、アスファルトに転がる前に、突っ込んできた車体がそれをさらっていった。
マネキンのように、孝平の身体は少し離れたアスファルトに転がり、何度か叩き付けられた。ごとんごとんと物体のような音をあたりに響かせ、そして静かになる。
「全ては、罪の意識が見せた妄執だったんだ。ばかみたい」
写真をめくる。
アスファルトにどす赤い血が拡がっていく。写真の私は頭で髪をかきむしりながら、おおよそ人間のものとは思えない醜い悲鳴をあげていた。
「とんだ茶番だわ。孝平がしんじゃったら意味がない――私のグラスに、何が残っていたところで」
ストロボの中の私は、叫んではいるが泣いていない。何が起こったのか理解できていないのだ。
だったら今、私が代わりに泣いてあげる。私は思った。今の私なら、そのとき何が起こったのかを理解することができる。
泣くことができる。
孝平は両手に一つづつ、糸を握っていた。一つは、私へと繋がっていて――決して切ることのできない、お互いが生まれたとき既に持っていたきらきら輝く呪いの糸。一つは、雪子へと繋がっていて――まだできたばかりで絹糸のようにもろい、しかし滑らかで美しい糸。事故は、両方を同時に護ろうとした結果だった。
そして、孝平は知っていたのだ。
『 』
誰かが、何かを訴えている。
今度は私はちゃんと、その言葉を聴き、受け止めた。
『知ってたんだ』
それは、傍観者であることを、切に打ち明ける言葉だった。
『知ってて黙ってたんだ』
どうして私はこんな、切なる言葉を聞きもしないで、闇の中に逃げたりしたんだろう。気を失ったまま、あたかも自分が犠牲になったようなふりをして、悲劇の中に逃げ込んだんだろう。
『ねえちゃんが、何を思ってるのか、ずっと全部、知ってたんだ』
写真の中の私は、孝平の最期の言葉をほとんど聞いていなかった。ばかみたい、と私はまた思って、そして泣いた。
◇◇◇
頬の上に何かの感触を感じ、少し身じろぎをする。それは静まり返った空気の中をふわりと舞い、月光の下へ踊り出た。
「――羽根」
純白の美しい羽根だった。
露のようなきらめきが、薄暗い空間に揺らめいた。
「どうして、スカイフィッシュが」
窓の外には目を疑う光景が広がっていた。
たくさんのスカイフィッシュたちが、星空を覆い尽くすように、ゆらゆらと飛んでいたのだ。それはまるで雪のようで、それでいて、言葉どおり亡霊のようだった。肉眼では捉えられないはずの彼らが、どうしてこんな低い空で、そしてまるで静止しているような飛び方をしているのだろう。
『スカイフィッシュは、大気の亡霊である』
何故かこんなときに、ナナシノモノの言葉がよみがえる。
そのとき私は、室内に人の気配を感じ、首だけを動かした。
「ねえ、た」
一瞬、誰だ、と思った。
幼い少女が扉の前に立って、幽霊でも見ているかのように呆けている。
「こーた、こーたん」
彼女はぼろぼろと泣きはじめる。肩より短い色素の薄い髪が、始まった嗚咽に揺れてなびいた。雪子だった。
「しんじゃ」
私は転げ落ちるようにベッドから降りた。いや、文字どおり転げ落ちていた。
仰ぐように再び、サイドテーブルの卓上カレンダーを見た。事故と同じ年、同じ月のまま止まっている。違う。止まっていたのは私の思考だ。
『 』
あのとき、私の時間は止まったのだ。