暗転、そして、
朦朧とした私の頭に、ヴェルグの声が飛び込んでくる。
羽根は金色に塗り変わり、一回り大きくなっても――あまつさえ、伝説の鳥であるフレースヴェルグだと露呈したところで――彼のぶっきらぼうさは変わるところではなかった。
クリスマスイブの夜に、夜じゅう空を飛ぶなんて、サンタクロースみたいで素敵だと思った。
でも、夜じゅうは無理だ。私は思う。
身体がゆらゆらと傾ぐ、まっすぐ立っているのが困難になってきた。
「人間、あんた――」
「言っちゃ、だめ」
私はそっと人差し指を口に当て、傍に佇んで私を見上げているリリーに、そう言った。
「素敵な時間が、だいなしになっちゃうでしょ」
幸いにもヴェルグは気が付かないようだし、生まれたばかりのスカーレットにも、この事実を知られたくはなかった。
リリーは小さく頷いて、初めて少し微笑ってくれた。
「アキ、飛びましょう」
私の意識は加速度的にその精度を失っていて、それでもナナシノモノの声だけが耳元でしっかり、そしてはっきりと聞こえていた。
「うん」
私は小さく頷いて、そして弱々しく地面を蹴った。
この身体ではもう、音を超える速さでなんて、とてもじゃないが飛べない。でもちっとも残念ではなかった。むしろ好都合だった。虚無の闇に還る前に、月や、星やネオンの光を、瞳の奥に焼き付けておきたかったからだ。
「ふら付いたら、あたしを掴んでも許してあげるよ」
リリーはぼそりと言った。彼女はすぐにそっぽを向いてしまったので、表情を見ることができなかったのは残念だった。
ヴェルグは始終、飛ぶのにまだ不慣れなスカーレットに寄り添っていた。幼いスカイフィッシュはまだ一言も言葉を発さなかったが、並んで飛ぶ私をじっと見詰めてきた。
瞳は黒曜石のような、とても深い色をしていて、私もその双眸を見詰め返した。少しだけ、雪子の目の色に似ている気がした。
スカーレットの瞳は、世界で一番純粋で、世界で一番無垢な色をしていて、この世界全ての幸せを願っている。
この世界の全てを愛している。
だからきっと、人々の願いで溢れている夜、このクリスマスイブを選んで生まれてくるのだ。
「アキ、何か、お祈りしますか」
ナナシノモノは、私に訊いた。
『――アキは、何を望みますか』
彼のその言葉が、この物語の始まりだったのだ。私は密かに思い起こしながら、首を横に振る。
私は結局何を望んでいたのだろう。
全てを捨てて、空へでようとしたのだろう。考えかけて、そしてやめた。無意味だった。
幸せを与えられる資格は私には無いし、空を飛べるだけで十分過ぎる。人の命を奪おうとした私に、奇跡など訪れやしないのだ。
でももし、何か一つだけ、願うだけなら許してあげると言われたら――。
『 』
あの言葉に、頷き返して――そして、謝りたかった。
瞳から、冷たい涙がぼつりとこぼれる。涙が頬をすべる感覚を、もはや感じることができなくなっていた。空気の冷たさも、月や星の明るさも、虹の海の鮮やかさも、全てがぼんやりと霞んでいく。
金色のフレースヴェルグと、赤いスカイフィッシュが、光る糸で繋がっているのが見えた。
上空に輝く月と、それを見上げる地球にも、光る糸が介在しているのが見えた。
私の身体からも、光る糸がいくつか伸びていた。
ありがとう。
さよなら、みんな。
そして、私の世界は再び暗転した。
第零章 『 』
仮に私が棒立ちでなく、早々にあの場所から立ち去っていれば。
いや、その仮定は無意味だし、あれこれ詮索することも今となっては無駄なこと。私は浮かんだ思いを打ち消した。
結局どうせ、あのとき私が地面を蹴ったことに、筋の立つ理由は見つからないのだ。
『ねえた』
雪子が間近で私を呼んだ。
そんな彼女を両手ですくい、車道から沿道へと転がした。それを目でも確認する。助ける意図とはいえ酷いやり方だったから、この数秒後、雪子は火が付いたように泣きだすだろう。
しかしそれより遥かに早く、骨が砕ける音が鳴り響いた。
遅れて連続的な激痛が身を裂き、息のほとんどが止まった。
『痛い――』
骨の断絶する音は、内側から響いてきたから、聞いたのは私だけだった。
斜め上を見上げて停止している私の瞳は、乾いたブルーの空を見た。今この青さに目を細めたのは、私だけだ。
目線を、赤黒く汚れてしまったアスファルトへ落とした。自分の血液が流れ出すときの、緩慢な音に耳を澄ませる。これを聴くのも私だけだ。
私は、私だけの世界に一人、横たわっていた。
『本当のひとりぼっちになってしまった』
ひとりぼっちになるのが怖かったのに、と、特に嘆くでもなく、私は思った。
言葉にする努力もしたつもりだが、もちろん声を発することはできなかったので、思っただけになった。
『世界が終わる』
私の世界が沈んでいく、音が一つずつ死んでいくのが分かる。
ガラスの音。
雪子の泣き声。
悲鳴。
喧騒。
慌てた靴音。
世界を構成する折り重なった音は、一つずつ順番にはがれ、死に絶えていく。闇が私のすぐ傍にやってきていた。
喧騒
サイレン。
喧騒。
サイレン。
喧騒。
サイレン。
サイレン。
『 』
誰かが、何かを叫んでいる。
『知ってたんだ』
それは、傍観者であることを、切に打ち明ける言葉だった。
『知ってて黙ってたんだ』
なんだ、私もひとりぼっちなんかじゃなかった。孤独を感じる必要なんて、はなからなかったのだ。
私は、事故の瞬間、その言葉をちゃんと聞きとがめていた。そしてその悲痛な訴えに頷き、答えを返す為に、虚無の闇の中に漂って、意識だけになってでも踏みとどまろうとした。
『ねえちゃんが、何を思ってるのか、ずっと全部、知ってたんだ』
孝平が叫んだ言葉は、私の世界で最後に死んだ音だった。
そして私は虚無の闇の中で、罪悪感や後悔やらをない交ぜにしながら、ずっと待った。誰かが再び『外の世界』へ出してくれることを待った。頷き返して、謝るために。
「私のグラスはからっぽなんかじゃなかった」
私は、自らの大きな誤解に気が付いた。
からっぽになったかに思えたグラスの中には、最初から、星屑のような小さなあかりが残っていたのに、私はそのことをずっと「忘れて」いたのだ。
終章 暗転、そして、反転
頬の上を流れていく空気が冷たかった。
何が起こったのだろう、と思った。
タイムリミットがやってきて、世界の全てがブラックアウトしたはずだ。なのに、窓から差す月明かりを、私の瞳は感じていた。
「ナナシノモノ……」
声を出したつもりだったが、酷く喉が渇いていて音にならない。そして、呼びかけに誰かが答えることも、頷くこともなかった。
引き抜いたはずの挿管チューブは、私の鼻腔に収まっている。払い除けたはずの点滴も、幾分細くなってしまった私の腕に根付いていた。しかし、電気コードや物々しい機械などは全く見当たらない。余計に私は混乱した。
『私のグラスはからっぽなんかじゃなかった』