暗転、そして、
計画がもとより破綻していたことと、予期せぬ絶望に叩き潰され、己の真意すらはかりかねた。そんな私が、その言葉を真っ直ぐに受け止められるはずはなかった。
冷たくなっていく弟をほっぽり出して、逃げるように昏倒したのだ。事故の光景と、喧騒とサイレンだけを脳に焼き付けて。なんて無責任なんだろう。
廊下に出ると、崩れるような格好で翔が座っていた。既に散々泣いた後で、頬には掻き毟ったような痕が残っていた。その視線は呆然と、宙の一転を見詰めている。
「しょう、たん……」
しゃくりあげる合間に片言のように言葉を発する。そんな雪子を、翔は掻き抱くように引き寄せた。
「翔」
私は呼んだ。一体何が起こっているのだ、と思った。
途端に翔の目が大きく見開かれ、私を見る。色のない瞳から涙が盛り上がった。
「何してたんだ、ねえ、ちゃん」
涙がぼろぼろと零れだし、痛々しく腫れ上がった頬をまた濡らした。
「俺たち、だけじゃ、無理だよ――もう。孝にいが、孝にいが――」
咆えるような嗚咽が、静まり返った廊下に響く。
一体何日間寝たきりだったのだろう。立ち上がろうとした私はよろけ、歩くことさえままならない。幻想の中では音速を遥かに超越していたというのに、ひどく情けなかった。孝平の病室は私のいる部屋から数十メートルも離れていなかったが、泣きじゃくる翔の手さえ借り、這うようにしてそこに辿り着いた。
室内には喧騒が満ちていた。
数人の医者と看護師が、成長期にも満たない小さな少年を取り囲んでいる。記憶の中と比べて、目を背けたくなるくらいその身体は白く、血の気がない。
バシン、と孝平の身体が電気ショックの衝撃で跳ね、心電図が大きく揺れる。しかしすぐに平坦に戻った。
彼の心臓は既に停止していた。
多くの装置や点滴は、孝平を繋ぎとめようとする。それでも、当の孝平の心臓は止まっているのだ。
私はその光景を呆然と眺めながら無意識に、右の手の平を握り締めていた。手の平に、糸が収まっている。淡く光るそれは電灯の下でも褪せることなく輝いていた。空中を漂うように、私と孝平の間を繋いでいる。
はっとして雪子を見た。雪子は両手で糸を握り締め、わあわあ泣いていた。はかなく輝く糸は、やはり孝平に続いていた。
再び行なわれた電気ショックに、孝平の身体が一層大きく跳ねる。物かなにかのように、はねてはシーツに叩きつけられるそのさまは、酷く恐ろしい。ドンと跳ねる、ドサリと戻り、動かない。
空中を漂っていた二つの糸が、蘇生が失敗する度にぶれて消えかける。
「消えないで!」
私は叫んでいた。
人工呼吸と電気ショックを繰り返す医者の手をそっと、男性が止めた。父だった。
喧騒に満ちていた部屋の中を、ツー、と平坦な電子音が支配する。
「アキは、どうしたいの」
すぐ傍で声がして、私は首を傾けた。
黒い猫が、黒い羽根をぴんと伸ばし、今まさに死に行かんとする少年を見ていた。
「アキは気付いた。そしてあたしに気付かせた。血に縛られて、糸を信じない愚かなこころを。変えようとしてくれた、開放したいと思ってくれた。現にあたしは、少しだけ変われた」
糸はもう、掻き消える寸前だった。
「どうしたいんだ」
黒猫の逆側に、金色のハヤブサが降り立った。彼も同じように少年を見ていた。
「アキは、俺とスカーレットの糸を、必死で守ってくれた。種族が違う俺たちの間に渡された糸を、守り、信じて、悟ってくれた――何と何の間にも、糸は存在することができることを」
ヴェルグは言った。
「ならアキは――どうしたいの?」
呆然としたまま何も言えないでいる私に、怒号ではない、諭すような声でリリーは言った。
「ナナシノモノは――これ以上空を漂っていてはいけない。彼には本当は、孝平という名前があるから」
窓の外をひしめくように、多くのスカイフィッシュたちが集まってくる。私たちの動向を見守るように、ゆらゆらと夜空をたゆたっている。
「アキは、どうしたいの」
室内にいる大人たちは誰も、その異変には気付かない。まるで視えていないかのようだ。
「地上に、もどして」
リノリウム張りの床に、私は頭を擦り付けた。頭を抱え、懇願する。
「孝平を、地上に戻して。お願いです、お願い……」
ついさっき、命乞いなどしないと高を括り、奇跡など起こらないと分かったような口を利いた私は、この傲慢な願いを誰にぶつけたらいいか分からなかった。ただ、糸を、とりあげないで、お願いです、お願いです、と何度も唱えた。
「もう一度やり直せるなら、そのチャンスをくれるなら。二度と間違えない、二度と見失わない」
涙なのか鼻水なのか分からないものが、床を濡らしていく。
「二度と、放したりしない」
私たちの糸を、私たちの全てを。孝平が命を賭けて護ろうとしたように。
「何度だって、命を賭けるわ」
不意にシャン、と鈴が鳴いた。
リリーが羽根を拡げたのだ。
ヴェルグの懐からスカーレットが空中に躍り出て、孝平の身体の上で一瞬跳ねてから、夜の空に飛び出した。そのとき一瞬、一定の電子音を奏でていたはずの心電図が乱れた気がした。
それを追うように、ヴェルグが孝平の身体を飛び越え、窓から出て行った。今度ははっきり、ピッ、と心電図が跳ねた。
「あんたも行くわよね、アキ」
彼女は黒い羽根を誇らしげに背負っていて、その後ろには、星々の中に悠々と横たわる、どっしりとした夜の空があった。
「クリスマスイブが終わっちゃう。ねえ、ほら」
そんな空の中、星と星を繋ぐように、赤と金のダストトレイルが螺旋を描く。さながら、夜を駆ける聖者だ。
たくさんのスカイフィッシュたちが瞬いている。
それに呼応するように、孝平の心臓が再び脈打ち、その証拠が電気信号となってモニターの中で跳ねている。
『アキは、生きています』
妙に芝居がかった口調の、かのスカイフィッシュの声がした。
『アキねえちゃんは、生きている』
歳の割りに落ち着いた口調が、それに重なる。
空にひしめくスカイフィッシュは、星とごちゃ混ぜになって、次第に歪んでいった。私の涙腺から膨れ上がる涙が、その輝きを鈍らせていた。
月などとうに、酩酊を通り越して、覆い尽くされ紛れてしまっていた。
タイムリミットは過ぎていた。
「だから、物語は、終わらないんだ」
かすれた声が、ポツリ、つぶやいた。
ベッドの上の、今にも死にそうだった少年が、起き上がって外を見ていた。
それを見て私は、また少し泣いたのだ。