暗転、そして、
少し離れた木の根元には、ヴェルグが横たわっていた。死んでしまったかと思ったが、時折苦しげに羽根を振るわせるので、辛うじて命を取り留めてはいるようだ。
「あんなイミテーションがなくたって、あたしは」
伏せていた双眸を上げ、リリーは上空を仰いだ。ガラスのように力を失っている金の瞳が、月をすっぽりと映し込み、この世の生き物とは思えないほど神々しい。
「ネコにも、スカイフィッシュにも――誰にも、はなから繋がってないんだ」
まるでその寂しげな光に呼応するかのように、私の腕にあるスカーレットも、変化を遂げ始めていた。
卵の赤い閃きが瞬間的に膨れ上がったり、死んだかと思うほど収束する。その振れ幅が大きくなるにつれて、今までほんのりとしか温かくなかった表面が、急激に熱を持ち始める。
私は両手の平の上で抱き上げるように、スカーレットを月灯かりの元にさらした。
「月が、空の中心にやってくる」
私はつぶやいた。今日の終わりを告げる月の南中が近い。同時に『月が酩酊』するその瞬間も、刻一刻と迫っている予感がした。そしてどうか、生まれてくるスカーレットに一目だけでも会えますように、と密かに願う。
私の願いに答えるように、花の囁きより静かで、夜の水面よりも澄んだ音と共に、最初の亀裂が卵の表層を割った。孵化が始まったのだ。スリットから光があふれ出し、それを始めに網目のような光の筋が表面を撫でていく。
次第に垣間見える内部は、煌々として、まばゆいばかりの美しさだった。
「……やっと……だ」
土の上に転がっていたヴェルグが、おもむろに起き上がった。
「このときを、ずっと待ってたんだ……俺は……俺が、産まれる前から」
「ヴェルグ、動いたらだめ」
茶色と白のマーブルの翼は、赤黒い血と泥でべったりと汚れていた。
「いいんだ」
そんな折れた血塗れの羽根とぼろぼろの脚で、身体をずるずる引きずり、今にも殻を破りそうなスカーレットの元へ近づく。
月の下で見れば、真ん丸の瞳は深い翠色をしていた。
「『生まれる前から決まっている』なんて、酷い理由だよ。俺も思う」
私は胸の前に掲げていたスカーレットを、ヴェルグの為に少し下げてやる。激しい赤い光が、翠の瞳に映りこんだ。私や、リリーの金色の瞳にも同じものが映っていた。
「本当にさ――生まれる前から決まっている、宿命……みたいなものが、この世界にあるんだとしたら」
「うん」
頷いてから、私は思った。これは人間の世界での、ある相関関係にどこか似通っている。
「それは、糸、だ」
でもまさか、そんなはずは無い。
「呪われているんだ、呪いなんだ。でも、大切なんだ。それは運命で、そして、理由がない」
スカイフィッシュであるスカーレットと、ハヤブサであるヴェルグに、その相関関係は成り立つはずがないのだ。
「護るんだ」
ヴェルグは、傷ついた身体から絞りだすように、そっと、言った。
『――護ってやるんだ!』
不意に、強かな少年の叫びが重なる。
「生まれるずっと、ずっとまえから、種族の違う俺とこいつが、糸で繋がってる」
ヴェルグがスカーレットに注いでいた視線を、私の方へとスライドさせる。赤い光に満ちていた瞳が、今度は戸惑いを浮かべている私の姿を映し込んだ。
『――ぼくの、いもうとなんだもん!!』
まただ、と、思った。
スカーレットの卵がパシン、と乾いた音を響かせる。
産まれるてくる前から、ヴェルグの糸の先にはスカーレットが繋がっていた。その無条件の相関関係は、一種の宿命のようなもの。
理屈も、理由も、種族も、血の繋がりさえも、
超える、想い。
赤いスカイフィッシュはしなやかな首をもたげ、ふわふわの羽毛を逆立てて小さく欠伸をする。殻は一瞬で砕け散り、生まれたばかりの小さな生き物が奏でる、初々しい羽音が、場を支配した。
少し遅れ、パァン、という小さな破裂音と共に、ヴェルグの血で汚れた羽根が、宙にすべて霧散する。散ったものの中から、黄金色をした光の塊が起き上がり、次に場を支配したのは轟々しい羽音だった。
金色が爆発的に膨れ上がった後、輪郭がくっきりと浮かび始める。
「ヴェルグ、きみは――」
私が言い終わるのを待たず、ヴェルグは金色の翼を闇の中で翻し、地面を蹴った。羽ばたきから生まれる凄まじい風を、木々の間に縦横無尽に駆けさせて、金色の鳥が地上を離れる。
「フレースヴェルグだ。初めて、見た」
あたしはあんな奴と戦ったのか、と、リリーは空を仰ぎながら身体を震わせる。
何か分からなくてただ首を傾げる私に、リリーは、「架空の鳥」、とよく分からない回答をくれた。
「スカイフィッシュが空の眷族なら、フレースヴェルグはさしずめ、風の王――世界で二番目に速い生き物です」
彼が飛んだ跡には、金色の光が、星が駆けた残り香のように、高い空へと伸びていった。
それを追うようにして、私の手の中で身じろぎしていたスカーレットが、ふわりと羽ばたく。練習するかのように宙に浮いたり降りたりを繰り返してから、予告なく、不意に空へと躍り出た。
ヴェルグが残した金粉の軌跡が消えないうちに、自らの、赤く滑らかな軌跡をその上に重ねて。
それは、地球上でもっとも美しい光景だった。
赤いダストトレイル。
金のダストトレイル。
折り重なるように二重の螺旋を描く、二本の軌跡が、星光のヴェールと虹の海の間に介在していた。
「知ってたのね」
私は言った。
「ナナシノモノ、きみは――こうなることを、最初から知っていたのね」
一つは、生まれたばかりで力を持て余す、粗雑な赤い輝きが描くものだ。
一つは、そんな赤い輝きを包み込まんばかりに穏やかな光を溢れさせる、金粉を振りまいたような滑らかな道筋だ。
その二つは夜空を懐柔し、暗いばかりだった中間層に光が舞い踊る。
まるで、今まで寡黙だった、淡い光を湛えるばかりで語らずにいた月が、突然――酔いつぶれてお喋りを始めたみたいに見えた。そう、月が酩酊している。
「僕は、知っていました」
ナナシノモノが項垂れたように思えた。
「そう」
私は頷いた。
そして、その瞬間――思い出したのだ。
『 』
聞こえなかったと思っていた、あの言葉。本当は、『誰』が放ったもので、『何』を訴えていたのか。
『 』
そんな、何度も繰り返さなくても分かるよ。
そう思ってからはたと気が付く。自分はこの台詞を今の今まで「忘れて」いたのだし、それを「忘れた」ままだったから、今の今まで大きな誤解を抱いていたのだ。
◇◇◇
『月が酩酊』した。
それは約束として、最初に定めたタイムリミットだったが、闇の迎えは私の眼前でほんの一瞬だけ、僅かな足踏みをした。
スカーレットやヴェルグ、ダイヤモンドリリー、そして、ナナシノモノと、聖夜の空を泳ぎ、奇跡を噛み締める猶予を与えてくれたとでも言うのだろうか。
「アキ! 飛ぼう、早く!」
スカーレットは、世界でひとりぼっちの生き物なんかじゃなかった。私は思った。
赤いスカイフィッシュの首には最初から、目には見えない糸がしっかりと絡み付いていた。
「早く、夜じゅうかけて地球をひっかいてやろうぜ!」