暗転、そして、
今リリーが吐き出した言葉と、かつての私の想いが突然蘇り、ぴったりと重なる。
「私は」
音の無い世界では、色が酷く鮮やかだった。
リリーの攻撃曲線の向こうに、放射状に赤い飛沫が散り、ヴェルグは電波塔の上空でくるくると墜落していった。放り出されたスカーレットは闇の間質を漂い、明暗を緩慢にコントラストさせる。
「それでも、私は、この子を」
リリーがぐんと、こちらへ方向転換する。
重い闇に手を伸ばした。瞳が熱い。
生まれてもいないスカーレットが、不意に私に微笑んだような気がした。伸ばした手がまるで、優しく受け入れられるかのように、赤い光が私の腕に収まり。
そして――。
骨が砕ける音が、身体の内側から、連続的に鼓膜へ上がってきた。
鈍い衝撃が貫いたのは、音の後だった。衝撃の後には身体の芯を揺るがすような酷い激痛が走り、息ができなくなった。
音の死んだ世界に、黒い羽根が散る。
物言わぬ金の双眸が、やはり悲しそうに見開かれていた。
もうすぐ月が頂点にやってくる、と、ぼんやり思った。宙に飛散した羽根は、豊満な月の煌々とする輝きさえを侵した。
「ああ、分かった」
私はつぶやいた。
「――分かったわ」
つぶやきながら、ネコでもなく、スカイフィッシュでもない、孤独な生き物に手を伸ばす。
金の瞳は見開かれたままで、逃れようとはしなかった。
私は優しく毛並みに手を触れると、その首から白のリボンを引き解く。放り出された純白のイミテーションは、すぐに闇に融けて消え失せた。
◇◇◇
『ねえたん』
一点の曇りもなく、初対面の私に差し向けられる笑みに、違和感を覚えたのが最初の歪みだった。それは本当に、とても僅かなものだったから、私は簡単に見逃してしまった。
ある時期から私は、雪子という幼女の「あね」になり、雪子は私の「いもうと」に納まった。義理の相関関係にある兄弟姉妹なんて、この日本では結構ありふれている。
『ねえた』
女性に促されるままに、小さな彼女は、初対面に近い私のことをそう呼んだのだ。
「ほら、おねえちゃんだよ。ゆきちゃんにはおねえちゃんができたんだよ」と女性が言い、彼女の小さな手の平をきゅうと握る。あやされて、雪子は無意識に笑んでいた。私は私で意識的な愛想笑いを浮かべ、違和感の正体を探る。分からなかったが。
嫌いだったわけではない。雪子は私のことはもちろん、目の前に現れるもの全てを平等に愛していたし、おそらく世界も彼女を愛していたに違いない。差し出される手の平はとても小さいのに、この世の素敵なもの全てを掌握せしめるほど、偉大な力を持っているように思えた。
ただ一つ。
『雪子』と呼ぶ、自分の声色と笑顔が、酷くぎこちない気がして、私は嫌だった。それが幾ら回数を重ねても、改善の兆しが見られなかったので、私はいよいよ嫌になっていった。
歳の離れた実弟である孝平は、「いもうと」の突然の出現と、その存在を抵抗なく受け入れていたようだった。
雪子を連れてきた女性は、誠実に愛情を注いでくれた。それは表向き、実子である雪子と分け隔てのないものだった。内心は知らない。たとえ違っていたとしても、それを追及するべきではないと分かっていたし、それで十分だとも思った。
『雪子が兄ちゃんって呼んでくれない』
あるとき、孝平が言った。なるほど、孝平は何故か『こーたん』と、続柄ではなく名前をもじった呼び名が付いていたのだ。
雪子が深慮なく私を姉と認識していたことと、私が雪子を純粋に妹とは思えないギャップは、早期から私を苦しめていた。ただでさえ脅かされていたのに、孝平のその一言は、そのギャップを更に際立たせた。
明るみが嫌で、暗いところにうずくまって隠れているのに、急に腕をぐいと掴まれ、白日の下に放り出されるような思いがした。
そして言った。
『いいじゃない、名前を呼び合うのは、親しみの表われなのよ』
私は誤魔化した。
『しょ、たん』
翔が五歳に上がった頃から母性に目覚めてしまった翔は、雪子にべったりになった。母音の「う」を巧く発音できない雪子に、『ショウタン』『ショウタンだよ』と、自分の名前を繰り返し連呼するさまは、まるでオウムへの言語教育のようだ、と親戚中の噂になった。
私は一人、浮いていた。
周りはそう思わなかっただろう。
それでも私は酷い孤独感を感じていた。それが日に日に増長していくことで、絶えず恐怖にも苛まれたのだ。
『ねえ、翔、雪子がすき?』
恐怖は、私の神経を侵していた。
折鶴を折る手が止まり、『うん!』と小気味良い返事が返る。
『雪子は、翔の本当の妹じゃないよ』
彼の顔が、一瞬強張るのを眼下におさめる。
『だからさ、本当にすきなら、結婚だってできるんだよ』
義理の兄妹が結婚できるかどうかなんて、私にはどうでも良かった。ただ、無垢な雪子への感情を、根本から汚してやりたかったのだ。
そうすることで救われる気がしていた。孤独が和らぐと思った、のに、
『雪子は! いもうとだもん!』
目の前がパッと白くなる。
『護ってやるんだ!』
反転、今度は真っ暗になる。
『ぼくの、いもうとなんだもん!!』
眩暈がした。
地面はどこだ、と、思った。
◇◇◇
「私は、『怖かった』」
ぬるい涙が、仰向けになった私のこめかみへ伝っていって、その痕は、冬の寒さですぐさま冷えて、冷たくなった。
「孤独だと思った。独りになる、と。だから皆を傷つけて、それでもうまくいかなくて、溺れて、もがいて――」
今までいた上空を、私は見上げた。その遥か上空から、ジャッジマスターである月が、私たちを見詰めていた。森の木々たちも、覆い被さるようにじっと見下ろしてきた。
「”雪子”を取り除けば解決する、と、考えてしまった」
「……アキ」
「きみが聞きたがった――これが答えよ。ナナシノモノ」
上空にて、スカーレットの確保とほぼ同時に、リリーは私に攻撃した。そして、私は森に墜落した。事実上、戦いは終局したことになる。敗走ではない、本当の終焉を迎えたのだ。
上空の高みからここまで墜ちはしたが、スカーレットは私の腕の中で、未だ明暗を交互にブリンクさせていた。
第五章 烈風を統べる王者は糸の存在を信じている
「ねえ――ダイヤモンドリリー」
私が呼ぶと、リリーはぴくりと耳を震わせ、力なく顔を少し上げた。
「リリーと私は、すごく似ていると思う」
「……似てない」
「似てるわ、同じかと思えるくらいに」
知らないよ、と、リリーはつぶやき、輝きを失った金の瞳をそっと伏せる。
いつもぴんと張っていた黒い翼は、落下の際に痛めつけたのか、それとも別の理由なのか、土の上にしな垂れている。
私は身体を起こして、その羽根についた泥を払ってやった。不思議なことに、リリーの攻撃を受けたとき、確かに骨が砕ける音がした。しかし、私の身体には僅かな裂傷しか残っていない。
「リリー、僕は」
「ナナシノモノ、あんたは、何も言わないで。もう、あたしも何も言わない。だから、黙ってて」