暗転、そして、
心にもないことを言っておどけながらも、爆発的に速度を上乗せしていく。頬に当たる空気は最初のうち冷たかったが、秒速五〇〇メートルに近づくと、繊細な温感は全く働かなくなった。
「アキ!」
垂直に上昇する自分の足元に、吸い寄せられるように無数のスカイフィッシュが集う。距離はすぐに詰まった。その様を少しだけ眺めてから、私は上を向く。両腕をクロスするように手中のものを抱き、風圧で手放さぬようにする。
「ナナシノモノ、速度を測っていて」
要求するや否や、私は大きく空気を蹴りつけた。身体を反らし、ムーンサルトを描いたその眼前を、ちょうど月が通過する。突然変化した軌道に、規則正しく追走ていた追跡者たちは、軌跡を大きく乱す。
身体を折って、二度の後方宙返りのあと、今度は地面と平行のベクトルに、一際強く空気を蹴り飛ばす。
「今度は初速、秒速四一〇!」
耳元を横切る風が、金属を軽やかに弾くような短く透明な音を響かせる。もっと、と私は思った。
バチン。
脳の奥で、痛みが戦慄く。
「――五〇〇、六〇〇、七〇〇」
フィギュアスケートの高速スピンのように横に回転すると、空気との摩擦で身体の周囲に光が散って、すごく綺麗だ。
「――九〇〇、九四〇……」
しばらく不規則に乱れていた追っ手は、私の飛んだ跡を再び、自分の軌跡で縫ってきた。私は更に強く空気を蹴り、追いつかれそうになっては速度を更に上乗せした。
「――九九〇、一〇〇〇、一〇一〇…………一〇二〇!」
「やった、音速の三倍を超え――」
真上でピンと、錆びた音叉を弾いたような、細い音がした。背中に重い衝撃が走る。身体がねじれるような圧倒的な力に息が止まり、視界が揺さぶられる。
「しまっ……」
私のダストトレイルに絡みつくように、数尾のスカイフィッシュが軽々と並走していた。そのうちの一尾が私に攻撃してきたのだ。
一瞬力が抜け、しっかり抱いていたはずの卵は、いとも簡単に腕からこぼれ落ちる。
「――ッ」
度重なる急加速の名残が風圧を生み、私の手から逃れた卵をさらっていく。手を伸ばしたが、超音速同士がぶつかり合ってできた渦にもまれ、それは二度と腕の中に戻ってくることはなかった。
「もう、ちょっと、がんばりたかったのに」
私はぼそりとつぶやいた。まだ速度は音速台には乗っていたから、声の波動は空気に取り上げられるようにして、すぐに消える。
「ヴェルグ――!」
私は叫んだ。これが合図だ。
遠ざかってしまった卵は既に、米粒に満たないくらいにしか確認できない。
攻撃された背中は軋んだように引き攣れて、私は顔を顰めた。空中に踏みとどまろうと身体に力を込めると、それこそ折れそうなくらい痛む。
「ヴェルグ! もう負けちゃった!」
私はもう一度叫んだ。卵の周囲に複数のダストトレイルが渦巻く、眼前でそれは小刻みに集束していった。卵を包んでいた服がはがれ、その姿が露になるかどうか、この一瞬で、第一段階が決した。
ピン、とまた、音叉を弾くような音がする。追って、砕けた破片が放射状に、空中に飛散した。そのうちの一つが私の頭のすぐ横を通過する。
卵の姿は空からなくなった。
「――残念、」
卵は、いや――卵として偽装した石ころは、空からなくなった。
「フェイクなんかに振り回された、おばかさん」
私はふふんと笑った。この瞬間、私は音速の三倍をクリアし、飛行能力においてはスカイフィッシュと認められることになった。実際はそんなことどうでもいい。
第一段階ではわざと地上へ持ち込まず、できるだけ加速してみたい。そうヴェルグにお願いしたのは、最初の敗走が悔しかったからと、より実戦に近い加速訓練をしたかったからだ。
私は地上に目を向けた。
二番目に大きな電波塔の鉄骨に透けて、赤い光がちらちらと垣間見える。フェイクに騙されなかった何割かが、その塔に群がっていた。
「やっぱり凄い、彼は、本当にただのハヤブサなのか」
「でも……性格の悪い飛び方」
電波塔の鉄索を縫い、私がさっきやって見せたのよりは少し荒いが、変化は大きくしかも速い。そのまま螺旋とジグザグを交互に描いて上昇し、ヴェルグは空中に突出した。
「いこう」
ナナシノモノが頷くのを待たず、空気を蹴った。私を追っていたスカイフィッシュ群は、既にヴェルグの存在に注意を移していた。
「初速、秒速六八〇」
また一歩躍進をみせた初速を、たった数秒で、ついさっき叩き出した一〇二〇に乗せる。私はいつからこんな、スピード狂になったのだろう。
「――秒速一〇五〇、一一〇〇、一二〇〇……」
群れるスカイフィッシュの何割かを追い抜き、残りと並走する。その並走するものの何割かも、ものの数秒で凌駕してやるつもりだった。
「遅いよ」
黒い羽根が翻る。
「遅いんだよ――あんた」
毛色はやはり、闇にも勝る鮮やかな黒だった。その肢体に纏わりつくでもなく、悲しげな白のシルクが寄り添っていた。
「あたしの最高速度、教えてあげる」
「……リリー」
「秒速二三〇〇メートル」
それは、音速の七倍にも匹敵するものだった。
はっとして彼女の顔を見ると、眉根を寄せ、とても悲しそうな表情を浮かべている。
「飛び始めのあんたには、無理だよ」
リリーはつぶやくように、静かに言った。
実際見たわけではないのに、泣きながら飛び続け、疲れて墜落するまで何度も練習をする姿が浮かんだ。私が悲しいわけじゃないのに瞳が熱くなった。
ナナシノモノ、やっぱり純白のリボンは間違いだ。
私は声に出さずにそう言った。ああ、慰めとして行われたあの行為さえもやはり傍観だったのだ、そう思った。スカイフィッシュの姿を真似るためのイミテーションなんてあげてしまったら、その瞬間から、彼女の選択肢は一つに限られてしまう。
「スカーレットを殺しちゃだめ」
「はあ? 何言ってんの、人間」
「だめよ」
「あたしは、あんたには出せない速さで、先ずあの鳥を殺す」
脳内が締め付けられるような酷い痛みに冒された。
「邪魔な鳥を殺して、赤い悪魔を殺す――そうするしかないの。あたしはスカイフィッシュなんだ――だからあの悪魔を」
爆風の所為で辛かったが、私は必死で両の眼を見開いた。確かに加速はしているはずだ、速度表示代わりのナナシノモノの声は聞こえなくても、今までに無い速さに、身体がぶるぶると痙攣する。しかしそれでも、リリーの背中は私から離れていく。
「リリー」
口を開いて、声帯を確かに震わせているのに、音は既に私の速さについてこなかった。
「ダイヤモンドリリー」
無音の世界で私は口だけを動かす。星光のヴェールも、ネオンの海も、速さに消されて見えなくなり、ただ超音速の闇の中、私の前からリリーの背中が遠ざかっていくばかりだ。
「それでも、私は――」
壊れた連続写真のように、ヴェルグが携えるスカーレットの発光が、目の前を舞っている。私たちを包囲するスカイフィッシュの全てが、止まって見えた。
『邪魔な鳥を殺して、赤い悪魔を殺す――そうするしか』
これはなんだ。
私は思った。
妙な既視感が過ぎった。
『雪子が嫌、怖い――消えてしまえばいいのに』