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くらたななうみ
くらたななうみ
novelistID. 18113
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暗転、そして、

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 心にもないことを言っておどけながらも、爆発的に速度を上乗せしていく。頬に当たる空気は最初のうち冷たかったが、秒速五〇〇メートルに近づくと、繊細な温感は全く働かなくなった。
「アキ!」
 垂直に上昇する自分の足元に、吸い寄せられるように無数のスカイフィッシュが集う。距離はすぐに詰まった。その様を少しだけ眺めてから、私は上を向く。両腕をクロスするように手中のものを抱き、風圧で手放さぬようにする。
「ナナシノモノ、速度を測っていて」
 要求するや否や、私は大きく空気を蹴りつけた。身体を反らし、ムーンサルトを描いたその眼前を、ちょうど月が通過する。突然変化した軌道に、規則正しく追走ていた追跡者たちは、軌跡を大きく乱す。
 身体を折って、二度の後方宙返りのあと、今度は地面と平行のベクトルに、一際強く空気を蹴り飛ばす。
「今度は初速、秒速四一〇!」
 耳元を横切る風が、金属を軽やかに弾くような短く透明な音を響かせる。もっと、と私は思った。
 バチン。
 脳の奥で、痛みが戦慄く。
「――五〇〇、六〇〇、七〇〇」
 フィギュアスケートの高速スピンのように横に回転すると、空気との摩擦で身体の周囲に光が散って、すごく綺麗だ。
「――九〇〇、九四〇……」
 しばらく不規則に乱れていた追っ手は、私の飛んだ跡を再び、自分の軌跡で縫ってきた。私は更に強く空気を蹴り、追いつかれそうになっては速度を更に上乗せした。
「――九九〇、一〇〇〇、一〇一〇…………一〇二〇!」
「やった、音速の三倍を超え――」
 真上でピンと、錆びた音叉を弾いたような、細い音がした。背中に重い衝撃が走る。身体がねじれるような圧倒的な力に息が止まり、視界が揺さぶられる。
「しまっ……」
 私のダストトレイルに絡みつくように、数尾のスカイフィッシュが軽々と並走していた。そのうちの一尾が私に攻撃してきたのだ。
 一瞬力が抜け、しっかり抱いていたはずの卵は、いとも簡単に腕からこぼれ落ちる。
「――ッ」
 度重なる急加速の名残が風圧を生み、私の手から逃れた卵をさらっていく。手を伸ばしたが、超音速同士がぶつかり合ってできた渦にもまれ、それは二度と腕の中に戻ってくることはなかった。
「もう、ちょっと、がんばりたかったのに」
 私はぼそりとつぶやいた。まだ速度は音速台には乗っていたから、声の波動は空気に取り上げられるようにして、すぐに消える。
「ヴェルグ――!」
 私は叫んだ。これが合図だ。
 遠ざかってしまった卵は既に、米粒に満たないくらいにしか確認できない。
 攻撃された背中は軋んだように引き攣れて、私は顔を顰めた。空中に踏みとどまろうと身体に力を込めると、それこそ折れそうなくらい痛む。
「ヴェルグ! もう負けちゃった!」
 私はもう一度叫んだ。卵の周囲に複数のダストトレイルが渦巻く、眼前でそれは小刻みに集束していった。卵を包んでいた服がはがれ、その姿が露になるかどうか、この一瞬で、第一段階が決した。
 ピン、とまた、音叉を弾くような音がする。追って、砕けた破片が放射状に、空中に飛散した。そのうちの一つが私の頭のすぐ横を通過する。
 卵の姿は空からなくなった。
「――残念、」
 卵は、いや――卵として偽装した石ころは、空からなくなった。
「フェイクなんかに振り回された、おばかさん」
 私はふふんと笑った。この瞬間、私は音速の三倍をクリアし、飛行能力においてはスカイフィッシュと認められることになった。実際はそんなことどうでもいい。
 第一段階ではわざと地上へ持ち込まず、できるだけ加速してみたい。そうヴェルグにお願いしたのは、最初の敗走が悔しかったからと、より実戦に近い加速訓練をしたかったからだ。
 私は地上に目を向けた。
 二番目に大きな電波塔の鉄骨に透けて、赤い光がちらちらと垣間見える。フェイクに騙されなかった何割かが、その塔に群がっていた。
「やっぱり凄い、彼は、本当にただのハヤブサなのか」
「でも……性格の悪い飛び方」
 電波塔の鉄索を縫い、私がさっきやって見せたのよりは少し荒いが、変化は大きくしかも速い。そのまま螺旋とジグザグを交互に描いて上昇し、ヴェルグは空中に突出した。
「いこう」
 ナナシノモノが頷くのを待たず、空気を蹴った。私を追っていたスカイフィッシュ群は、既にヴェルグの存在に注意を移していた。
「初速、秒速六八〇」
 また一歩躍進をみせた初速を、たった数秒で、ついさっき叩き出した一〇二〇に乗せる。私はいつからこんな、スピード狂になったのだろう。
「――秒速一〇五〇、一一〇〇、一二〇〇……」
 群れるスカイフィッシュの何割かを追い抜き、残りと並走する。その並走するものの何割かも、ものの数秒で凌駕してやるつもりだった。
「遅いよ」
 黒い羽根が翻る。
「遅いんだよ――あんた」
 毛色はやはり、闇にも勝る鮮やかな黒だった。その肢体に纏わりつくでもなく、悲しげな白のシルクが寄り添っていた。
「あたしの最高速度、教えてあげる」
「……リリー」
「秒速二三〇〇メートル」
 それは、音速の七倍にも匹敵するものだった。
 はっとして彼女の顔を見ると、眉根を寄せ、とても悲しそうな表情を浮かべている。
「飛び始めのあんたには、無理だよ」
 リリーはつぶやくように、静かに言った。
 実際見たわけではないのに、泣きながら飛び続け、疲れて墜落するまで何度も練習をする姿が浮かんだ。私が悲しいわけじゃないのに瞳が熱くなった。
 ナナシノモノ、やっぱり純白のリボンは間違いだ。
 私は声に出さずにそう言った。ああ、慰めとして行われたあの行為さえもやはり傍観だったのだ、そう思った。スカイフィッシュの姿を真似るためのイミテーションなんてあげてしまったら、その瞬間から、彼女の選択肢は一つに限られてしまう。
「スカーレットを殺しちゃだめ」
「はあ? 何言ってんの、人間」
「だめよ」
「あたしは、あんたには出せない速さで、先ずあの鳥を殺す」
 脳内が締め付けられるような酷い痛みに冒された。
「邪魔な鳥を殺して、赤い悪魔を殺す――そうするしかないの。あたしはスカイフィッシュなんだ――だからあの悪魔を」
 爆風の所為で辛かったが、私は必死で両の眼を見開いた。確かに加速はしているはずだ、速度表示代わりのナナシノモノの声は聞こえなくても、今までに無い速さに、身体がぶるぶると痙攣する。しかしそれでも、リリーの背中は私から離れていく。
「リリー」
 口を開いて、声帯を確かに震わせているのに、音は既に私の速さについてこなかった。
「ダイヤモンドリリー」
 無音の世界で私は口だけを動かす。星光のヴェールも、ネオンの海も、速さに消されて見えなくなり、ただ超音速の闇の中、私の前からリリーの背中が遠ざかっていくばかりだ。
「それでも、私は――」
 壊れた連続写真のように、ヴェルグが携えるスカーレットの発光が、目の前を舞っている。私たちを包囲するスカイフィッシュの全てが、止まって見えた。

『邪魔な鳥を殺して、赤い悪魔を殺す――そうするしか』

 これはなんだ。
 私は思った。
 妙な既視感が過ぎった。

『雪子が嫌、怖い――消えてしまえばいいのに』
作品名:暗転、そして、 作家名:くらたななうみ