暗転、そして、
「スカーレットがめでたく孵化を迎えるまで、守りきれば勝ちなんだろ」
「ヴェルグは、その瞬間に立ち会ったことは?」
「ねえな――俺が生まれたときにはもう、スカーレットは赤い悪魔に祀り上げられて、卵の破壊なんて下劣な行為がが常識的で当たり前のことにされてやがった」
ヴェルグは悔しそうに眉を顰め、掴んでいる私の服をちぎれんばかりに握りしめる。
「去年も同様に生まれた卵が殺された。俺は両翼が折れるまで飛んだが、それでも守りきれなかった。一昨年も、その前も同じだった。産まれてこの方、ずっと俺は、多数派の通念と闘って、闘っては負ける――いつまで経っても出逢えないまま、護れないままで」
ここまで聞いて、私はヴェルグが教えてくれなかった「護る理由」が何なのか、酷く気になった。
「逢いたい」
ヴェルグは言った。
月はもうすぐ、空の頂上にやってくる。ちょうどその頃今日が終わり、日付が変わる。明日を迎えたとき、スカーレットはもう孵化しているのだろうか。
「待つのは、少し怖いね」
私と、私に手を貸したがゆえスカイフィッシュに敵対してしまったナナシノモノと、手負いのハヤブサ――世界でひとりぼっちのスカーレットは、茂る木々の間に見える、寡黙な月を見上げていた。
ナナシノモノは月と同じく黙したままで、ヴェルグは私の言葉に頷き、月を仰いでいた。
この静けさは、後どのくらいも続かないだろう。月の南中を待たずに、多数派は少数派を隠匿しようとするに違いない。
第四章 独りぼっちの弱虫は無音の中でデジャヴを視る
手に力を込めると、ヴェルグはうめきながらぶつぶつ文句を言った。
折れ曲がった右翼を広げてみたが、折れた骨格は外部まで達していない。裂傷からの出血は水で洗い流し、骨は手ごろな枝数本をテープで固定、取りあえずの応急処置は施してみた。
「これで本当に飛ぶつもり?」
痛い痛いと散々文句を言われながら、処置は完了した。ヴェルグは私の身体からピョンと跳び下りると、何度か羽ばたいたり、身体をひねったりする。
「おまえ速かないし、実際さ、俺も飛ばないとこの先やばいんだろ」
私は頷いた。さもなくば、スカーレットが孵化するまで隠れ続けられればいいが、成功率は限りなく低いだろう。
「ナナシノモノ、私の最高速度、さっきでどのくらいでてたかな」
「瞬間的なものでも、秒速約六五〇メートルですね」
「半分か……全然足りない」
スカイフィッシュの基準速度は、音速の三倍以上――つまり、秒速一〇二〇メートル以上で飛べなければお話にすらならない。
「大丈夫だって、人間は進歩する動物なんだろ? それに、俺にはあんな細やかな軌跡はつくれない」
「ただ、」とヴェルグは顔を歪める。
「あの女、かなり速いな、リリーとかいったか」
「はい、母君が召されてから、毎日毎晩――時には何日も寝ずに、ひたすら飛ぶ練習ばかりしていました」
「飛ばないスカイフィッシュが、やる気になりましたってわけか」
「やっかいだ」と、ヴェルグは折れていないほうの翼で頭をかいた。
「激昂してるときでさえ、まだ最高速度は出てなかった。おそらく、俺が本調子でも、勝てる気は――」
不意に言葉を切り、木々の向こうに横たわる闇に目線を滑らせる。さっきまで確かにあった、他の無関係な動物の気配や、時折は響いていた甲高い嘶きが、ぷっつりと途絶えていた。
ヴェルグはひととおり見回してから、無言で私に促す。移動せよ、という合図だ。傷ついた羽根の手当てを始めてから、気付けば十数分、これ以上同じ地点に留まっていては危険だ。私も無言で頷き返した。
「あのハーフ女には、筋は立たないが一応の理由がある。それはまあ、理解した」
音も無く木々を縫いながら、ヴェルグは小声でつぶやいた。
ハーフ女だなんて、と私は思ったが、ヴェルグの言葉を途切れさせたくなかったので、口は挟まない。
「俺にも、筋の立たない理由ならあんだ――例え、スカーレットが、生まれる前から悪魔に祀り上げられた生き物なんだとしても。実際生まれてみれば本当に悪魔で、酷いやつで、最高に性格のひん曲がった屑だったとしても、護らなきゃいけない理由がある」
その口ぶりには、悔しさや痛みにも増して、宿命めいたもの――普遍的な要素を、私は感じた。
「それは、何故なのか――訊いてはいけない?」
「ずっと昔から、決まってたことだ」
「話しては、もらえないの?」
「産まれたときから、いや――産まれるずっと前から、決まってたんだ」
私は一度黙った。それは答えになっていないのに、何故か凄まじい説得力のようなものを感じたのだ。
私の”スカーレットを護る”という決意も同じく、筋が立てられない。その点では相違無いのかもしれないが、やはりヴェルグのものとは少し違う気がする。
「おい」
ヴェルグは、羽ばたきを最小限に抑え、短く言った。痛い翼に無駄な負荷が掛かることは必至だが、仕方がない。
「動き出すぜ、奴ら」
随分前から、森の中は異様なほど静まり返っていた。全ての生き物が死んだのかと思わせるほど、風や、木の葉の囁きすらも失せ、ねばつくような空気だけが漂っている。
この不自然な沈黙は、おそらく作為的なものなのだ。
「うん」
私は頷いた。
静けさの中で息を殺しながら、地面を発つまでの短い間、私たちは無言を交わし合った。それは束の間のようにも感ぜられたし、もっとずっと長かったようにも思える。
事前にお喋りが過ぎた所為か、結局満足に段取りを示し合わせることはできなかった。
最初に空へ出たときそうしたように、私は暗い中間層で身体を伸ばす。隣にハヤブサの姿はない。
「そっか、ジャッジマスターだから、最初からずっと黙ってたのね」
未だ寡黙でいる月が、街に虐げられた天然の森と、そのところどころを突き破る巨大な電波塔を、平等に照らし出している。煌々と浮かび上がる森の中と、その上空、いたるところにスカイフィッシュの姿が見えた。やはり完全に囲まれているようだ。
月光は、そんなスカイフィッシュたちの身体に照り返り、居場所の全てを私に教えてくれたし、逆も然りだった。私の姿は丸見えに違いない。
「囲む数が、さっきよりも遥かに多いです、アキ」
覚悟していると頷いて、私は懐に収めた服で覆い隠した塊を、ギュッと強く抱いた。
アウェーで戦うサッカー選手は、こんな気持ちなのだろうか。三六〇度に囲まれた閉鎖空間――空の上なのに閉鎖だなんておかしいが――その中で、私たちはやけに浮いた存在だった。このフィールドには残り十〇人の味方もいない。
「いくよ」
私が上空に向けて空中を蹴ったのは、ポジションを暖め続けていたスカイフィッシュ群が、静止をやめた瞬間とほぼ等しかった。
「初速、秒速三〇〇メートル」
ナナシノモノが言った。初速で、しかも降下ではなく上昇において、この値は凄まじい進歩だ。それでもスカイフィッシュには遅すぎる。追ってくる砲火はすぐに、私が空気を蹴ったポイントに辿り着いた。そしてためらいなく通過、私の軌跡を螺旋を描くように縫ってきた。
「まるで金のガチョウね。皆、ばかみたいに付いてくるんだもの」