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「月傾く淡海」  第三章 月の淡海

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「ちょっとあなた、まさかここに入るつもりじゃあ……」
「そうですよ」
 深海は平然と言うと、入り口を守っていた兵に声をかけた。
「こんばんは。ご苦労ですね」
「これは、深海さま。またどちらかへお出かけで?」
「ええ。少し遅くなってしまいました。あ、この方たちは僕の客人(まろうど)です。通してあげてね」
「そうですか。これは、よくいらせられました」
 兵の男は、倭文に向かって慇懃に頭を下げた。
 呆気にとられる倭文を伴い、深海は館の内へ入っていった。
 館内は、各所で火が焚かれ、外とは比べものにならないくらい明るい。
 思わず目を閉じた倭文の耳に、美妙な男の声が入ってきた。
「おやおや、これは……」
 倭文は目を開けて眼前を注視する。
 壮麗な館の階に、一人の若い男が腰掛けていた。
「しじみを採りに行った男が、麗し女(くわしめ)を連れて帰るとは。面白いこともあるものだ」
 男は、左手に持った薄い土器(かわらけ)の杯を持ち上げて笑った。
 それは、あたりを払うように泰然とした気配を漂わせた美丈夫だった。
 悠揚とした仕種の中にも、ゆったりとした品格が感じられる。
 --これは、首長だ。
 倭文には、一目で判った。
 この男は、一族を背負う為に、始めから頂点に生まれた者だ。それ以外の何者でもない。
「……お前は、一体どこまでしじみを採りに行ったんだい?」
 男は、鷹揚に深海に問いかけた。
「瀬田川だよ」
「瀬田? そんなところまで行ったのか」
 男は呆れたように言った。
「いや、始めはそのつもりじゃなかったんだけど。いいしじみが採れるものだから、夢中になっている内に、どんどん下っていってしまったんだ」
 深海は頬を紅潮させながら、恥ずかしさそうに弁解した。
「まったく、お前らしい。……しかし、その折角のしじみを持っていないようじゃないか」
 そう言うと、男は深海の背で眠る稲目を一瞥した。
「それが、僕の不注意で、この人たちの乗った馬の前に飛び出してしまったんだ。そのせいで、馬は逃がすし、従者の子供には怪我をさせてしまうし……しじみも落としてしまったんだ」
 稲目を背負ったまま、深海は悄然と項垂れた。
「……まったく、お前は……本当に、どこででも問題を起こす奴だな」
 男は可笑しそうに苦笑すると、杯を階に置いて立ち上がり、倭文の方を向き直った。
「これは、弟が失礼をした。代わって、この息長真手王(おきながのまておう)がお詫びしよう。--汝(いまし)は、どちらの族の郎女で?」
「--弟?」
 倭文は、真手王の言葉に驚いてその顔を凝視した。
 垂襟の衣を纏い、優雅に下角髪を垂らした真手王は、鮮やかな印象を残す端麗な美男である。温良な深海とは、まったく似ていない。
「いや、ただの弟分……というか、客人です。僕の生まれた族が、息長とは友族(ともが
ら)なので」
「十年以上も居座った客人だがな」
 真手王は軽快に笑い飛ばした。その姿に、彼の器の大きさがほの見える。
(息長の真手王……そうか、この野州は、息長の領だったのね)
 眼前の王を見ながら記憶を反芻し、倭文はやっと合点がいったように一人頷いた。
 息長氏は、近江の坂田から湖東にかけて本拠を置いた、古い豪族である。大和から離れているので、宮殿でその一族の姿を見かけたことは殆どなかったが、淡海の水利権を一手に押さえているため、相当な勢威を持った氏族だと聞いていた。
 そして、この野州に館を構えた、息長一族の若き王が、この真手王なのである。
「……息長では、客人にしじみを採らせるの?」
 倭文は少し警戒を込めて言ったみた。
 深海の正体はある程度判ったが、だからといって、しじみ採りなど首長の弟分にやらせる仕事ではない。
「ずっと前から止めろと言っているのだがね。これが意外と頑迷で、首長の命を聞かぬの
だよ」
「だって真手王、何年もただ飯くらいのまま居座ってたんじゃ、僕の気が収まらないじゃないか。何か役に立ちたいんだよ」
「……だからって、なんでしじみなの?」
 あけすけな深海の言葉に少し呆れながら、倭文は彼に聞いた。
「真手王の好物なんだ。しじみの酒煮」
「淡海の珍味だよ。郎女も、召し上がられるといい」
 深海と真手王は、阿吽の呼吸で言葉を交わす。
 その睦まじい姿を見ていると、倭文にも二人の関係がなんとなく判ってきた。
 つまり、兄弟以上の義兄弟、というわけだ。
(同母の姉弟でも、わかりあえないのもいるってのにね……)
 倭文は、二人の若い男の姿を羨ましく眺めた。
「--そうだ、真手王。それで、この人は、淡海まで旅をしていたっていうんだ。ちょうどいいから、この館に置いてもらえないかな。せめて、この子供の足が直るまで」
 朗らかに笑っていた深海は、急に思い出したように言った。
「淡海に旅を? ……ああそういえば、どちらからいらしたのでしたかな」
 真手王は倭文に目を向け、再び聞いた。
「……飛鳥の方から……」
 少し逡巡した後、倭文は言葉を濁した。
 どうもこの王は、深海のように単純ではないらしい。まだ緊張を解けぬ相手に対し、倭文ははっきり本当のことを言いたくなかった。
「そう、飛鳥の姫か。山ごもれる美しの国の麗し女が、淡海の国へ来られたか。--何用
で?」
 そのとき、真手王の眼に探るような光が浮かんだのを、倭文は見逃さなかった。
「……特に、用というのではありません。私は山育ちなので、一度淡海というものを見てみようと思いたっただけで……」
「それで、従者お一人だけを連れて、長い道程を旅されてきたと?」
「--ええ」
 倭文は注意深く答える。
 そんな彼女の様子を一瞥して、真手王は唇の端に笑みを刻んだ。
「……そうですか。まあ、あなたならばそれも大丈夫でしょうな」
「--何故?」
「あなたは、清冽な凛気を持っておられる。不埒な者には、手出し出来ぬでしょう」
 真手王は瞳に余裕の色を浮かべて言った。
(ほら、やっぱり気が許せない。この男……)
 倭文はずっと明確な事を避けるように返答しているのに、真手王はさっきから的確に本質を付いてくる。
 まだ敵か味方かも判らない鋭すぎる男には、注意が必要だと思った。
「ご迷惑ならば、辞去いたしますが」
「迷惑など、とんでもない。淡海は我が一族の誇り。淡海の客人は、一族の客人だ。しかもあなたのような麗し女ならば、大歓迎というもの。深海の無礼もあります。どうか供人の怪我が癒えるまで、ゆっくりと滞在なされよ」
「そうですよ、折角ここまで来たんですから、ね?」
 深海も口を添える。彼は、己に負い目がある分必死だった。
 少し困った倭文は悩みながら、深海の背で眠る稲目に眼をやった。
 安心しきった子供は、出会ったばかりの男の背で、すっかり眠りこんでしまっている。
 考えてみれば、小さな子供に無理ばかりさせてきた旅だった。
(たまには、快適な館でゆっくりと休ませてあげようか。怪我もしていることだし……)
 まあ仮に、何か不都合な事が起こったとしても、自分の腕ならなんとか切り抜けられるだろう。そのくらいの自信は、ある
 倭文は稲目の言った『悪い奴じゃないと思うよ』という言葉を思い出しながら、二人の男に向かって顔を上げた。