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「月傾く淡海」  第三章 月の淡海

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「いいえ、野州(やす)の深海……とりあえず、今は」
 それだけ言うと、青年--深海は、また慣れた調子で葦の中を歩き出した。
 倭文はしばらく「野州ってどこだっけ……」と考えていたが、すぐに我に返り、置いていかれないよう、慌てて深海と稲目の後を追った。


 稲目を背負った深海の後を着いていくと、川岸に一そうの丸木舟がつけてあった。
「どうぞ。乗って下さい」
 先に降りて舟の中に稲目を座らせると、深海は笑顔で倭文を手招きした。
 倭文はこれまで舟に乗ったことが無い。恐る恐る縁に足を乗せると、思いのほか揺れた。
「うわ、あぶな……」
 態勢を崩しながらも、なんとか中に座り込む。
 大木をくり貫いた丸木舟は単純な作りだったが、その分がっしりとして丈夫そうで、大人が四、五人乗れるくらいの広さがあった。
「大丈夫ですか。あまり動かないで下さいね」
 深海は櫂をとり、慣れた手つきで舟を漕ぎ始めた。
 川面を滑るように、丸木舟は走り出した。
「……ねえ、こいつ、どう思う?」
 深海が風読みに集中しているのを確認すると、倭文は小声で稲目に聞いた。
「……んー、ちょっと、変わってるかも……」
「やっぱりそうよね?」
 倭文は確認するように呟いた。
「でもさ、姫……」
 稲目は深海の横顔を盗み見て、倭文の耳元で囁いた。
「俺のカンだと、こいつはそんなに悪い奴じゃないと思うよ」
「そんなもの?」
「うん。俺、色んな奴見てきたからさ。着いていきたくない奴って、なんとなく判るんだ」
「へえ……」
 倭文は深海の後ろ姿を眺めながら呟いた。
 確かに、全身から人の好さそうな気配を漂わせている男だ。しかも、その柔和な面立ちに似ず、なかなかの剛腕を持っているらしい。
 川面を眺めている内に倭文は気づいたのだが、どうもこの舟は、流れに逆流しながら進んでいた。
 そんな走らせ方をするには余程の力が必要なはずだが、深海は一貫して楽しげに、涼しい顔で櫂を漕ぎ続けているのである。
 しかも、舟は殆ど揺れない。余程彼は練達しているようだった。
「……もうすぐ淡海に入ります。そうしたら、湖水の流れに乗れますから。今より早いで
すよ」
 暫く漕ぎ続けた後、深海は空を仰ぐと、嬉しそうに告げた。
 倭文は周囲を見回す。
 少し風が変わったようだ……と思った頃、三人を乗せた舟は、一気に広い湖面へと流れこんだ。
「うわあ……」
 夕風になびく髪を払いながら、倭文は感嘆の声を上げた。
 そこには、これまでとはまったく違う景色が広がっていた。
 水、一面の水。
 淡海の湖水は無限に広がり、果てなきもののように倭文を取り囲んでいた。
 穏やかな凪ぎの湖面には、落ちかけた秋の陽が金の光を溶け込ませている。静かな波が動く度に、あちらこちらで煌々と反射するのが見えた。
「本当に、広いのねえ……」
 陰りゆく彼方の山々を見やりながら、倭文は呟いた。
 倭文は、これまで海を見たことがない。
 しかし、これはまさに『海』だと思った。陸に囲まれた中にある、広い広い真水の海。
 これが、『淡海』というものなのだと--。
「美しいでしょう」
 深海は誇らしげに語る。彼の言葉に、倭文は無言で頷いた。
「我ら湖の民は、全てこの恵みによって生かされています。生まれるも、還りゆくも、全ては淡海と共に……」
 深海は櫂を漕ぐ手を留めて言った。
 湖流に乗った舟は、風と同じ速度で湖面を滑るように進んでいく。
 淡海の湖岸は、びっしりと茂った葦で覆われていた。
 葛城の地で育った倭文が、これまでに見たこともないような群生だ。
 遙か古の神代、まだこの国が生まれたばかりの稚い頃、大八州は一面をこの葦で覆われていたという。
 やがて葦は言葉を覚え、地を離れて歩きだし、『人』になった。
 だからこの国を「豊葦原(とよあしはら)」と呼ぶのだと、昔、古老に聞いたことがある。
 そんな古い神話が今も息づいていることを実感させられるような、幻想的な景色だった。
 やがて倭文がもの思いに耽っている内に陽は完全に落ち、かわって薄白い月が輝き始めた。
「ああ、今宵は満月だったんですね。良かった」
 空を見上げた深海がほっとしたような声を出した。
 こうこうと輝く白い月が、静謐な冷たい光を湖面に投げかけている。群青の闇に覆われた淡海は、陽のある世界とはまた様相を一変させていた。
 湖上の天空に輝く月を見上げていた倭文は、そのすぐ側で朱色に瞬く一つの星を見つけた。
「あれは……蛍星?」
 倭文は天を指さして深海に尋ねる。
 深海もつられて天を仰いだ。
「そうですね……蛍星だ。今宵は随分と大きい……」
「大きいというより……月に近すぎない?」
 蛍星は特に珍しい星ではない。朱に輝く夜空の星として、古くからよく知られている。
 ただ、その光が人を惑わすようにゆらめいて瞬いていることから、どちらかというと不吉の象徴のように伝えられていた。
 特に、蛍星がひときわ大きく輝くときには、何か良くないことが起こると恐れられている。
「蛍星があれほど月の側で輝いているのなんて……これまで見たことないわ」
 倭文は特に根拠のない言い伝えなど信じてはいない。
 しかし、夜空を支配する者たちの稀な姿に、どこか尋常でない畏怖を感じていた。
「ああ、でも……綺麗だ」
 空に見惚れていた深海は、ふと湖岸に目をやり、慌てて櫂を取った。
「いけない、つい見とれてしまった。もうすぐ野州に着きます」
「え、もう?」
 倭文は驚いて辺りを見回した。
 静かな淡海の情景に気を取られている間に、何時の間にか数刻が経過していたのだ。
 近くの湖岸を見渡すと、葦原の一角を切り取ったように場所に、人工的な船着き場が設けられていた。
 深海は器用に櫂を動かして、丸木舟をそこへ着けた。
 船着き場には、同じような舟が幾そうも繋げられている。恐らく、ここの族の人々がよく利用しているのだろう。
「じゃ、僕の後に着いてきてくださいね」
 舟に揺られるうちに眠ってしまった稲目を背負うと、深海は葦の中に作られた道を歩き始めた。
 彼の後をしばらく着いていくと、やがて里の明かりが見え始めた。深海は迷うことなく、もの慣れた調子で里の中を奥へと進んでいく。
 野州の里は、かなりの規模で拓けた処のようだった。
 人口も多いらしく、茅葺きの宅が多く立ち並んでいる。既に日が暮れているため里中に族人の姿はまばらだっだが、それぞれの宅からは暖かな灯が漏れ、うまそうな夕餉の匂いが立ち上っていた。
(豊かな……里だわね)
 周囲を観察しながら、倭文はそう思った。大和の族と比べても、遜色ない。恐らくこれも、「淡海の恵み」がもたらしたものなのだろう。
(それにしても……どこまで行く気?)
 深海の後をついて歩きながら、倭文は怪訝に思い始めた。
 「宅へ帰る」と言っていたから、てっきりその辺りの住居の一つに入るものだとばかり思っていたのだ。
 しかし、深海はそれらの里人の宅には目もくれず……一番後方にある、立派な木造の館へと向かっていた。
 警護の兵に護られているその御館を見た途端、倭文にはすぐにそれが何であるか判った。
 これは、王の御館だ。