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「月傾く淡海」  第三章 月の淡海

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 抗議の声を上げる倭文を、馬は近くの葦の上に振るい落とした。空を飛ばされた倭文は、反射的に受け身の姿勢をとる。背中から落下したが、葦の群生が衝撃を吸収したせいもあって、頭を打ったりはしなかった。
 倭文は起き上がると、すぐに葦の中から飛び出した。
 しかし、既に、遅かった。
 道に駆け戻った倭文が見たものは、遠く彼方に逃げていく馬の後ろ姿と、道一杯に散乱した大量の小さな貝と--その中に、うつ伏せに転がった一人の人間だった。
「ああ、馬! 待ってーー!」
 倭文は手を伸ばして虚しく叫んだが、無論馬が戻るはずもなかった。いやむしろ、まるで解放されてせいせいしたとでもいうように、自由になった馬は生き生きと草原を疾駆しながら去っていく。
「ああ……」
 散らばった貝の中で、倭文は呆然と立ち尽くした。
「う、ああ、しじみ……」
 不意に、倭文の足下からくぐもった声がした。
 倭文は声のした方に目をやる。
「--しじみ! 僕の、僕のしじみ!」
 叫びと同時に、貝の中に転がっていた人間が起き上がった。
 それは、一人の青年だった。
 青年は周囲を見回すと、土にまみれたり、踏み潰されたりした貝の哀れな姿を目に留め、悲しそうに顔を歪ませた。
「ああ、ごめんよ、しじみ達! ついさっきまで、あんなに生き生きとしていたのに! 僕が不注意なせいで、こんな姿に……」
 地べたに座ったまま、青年は散乱した貝を掻き集め、愛しそうに頬擦りした。
「……」
 倭文は腕を組み、無言のまま青年の姿を見下ろしていた。軽く目を瞑り、少し前に眼前で起こった光景を反芻する。
 自分の記憶に過ちが無かったことを確認すると、倭文は青年の胸倉を掴み上げた。
「呑気に貝にばっかり謝ってんじゃないわよ! お前ね、さっき急に川原から馬の前に飛び出してきたのは! おかげでこっちは落馬するわ、馬には逃げられるわで散々よ! まず、私に謝罪しなさい!」
「……え?」
 青年はきょとんとすると、掌から貝を取りこぼし、急に倭文に向かって平伏した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、しじみよりごめんなさい!」
 青年は恐縮しきったように、何度も何度も倭文に向かって頭を下げる。
「お前の基準は、どこまでも『しじみ』が中心なわけ……?」
 青年を見下ろしながら、倭文はにがにがしく言った。
「はい! しじみは、淡海(うみ)の恵みですから! 白珠にも優る近江の宝です!」
「そんなわけないでしょ、馬鹿じゃないの、お前……」
 倭文は腕を組んだまま、呆れたように言った。
 その時、背後から彼女に声がかかる。
「なんか、苛めてるみたいだよ、姫……」
「--稲目!」
 倭文は慌てて振り返った。
 葦の群生の中から、片足を引き摺った稲目がゆっくり歩いてくる。
「稲目、大丈夫だった?」
「まあ、大事はないよ。でも、足ひねっちまった。やっぱ姫は凄いねぇ。落馬したってのに、それだけ元気なんだから……」
 感心したように苦笑しながら、稲目は倭文の隣に立った。
「こいつ? さっき飛び出してきたの」
「そうよ、まったく。そのせいで馬はどっか行っちゃたわよ」
「--君、怪我をしてしまったのですか?」
 現れた稲目の痛々しい姿を見ると、青年は激しく衝撃を受けた表情で話しかけてきた。
「ああ? いや、大したことじゃねえけど……」
「……」
 傍らで強がる稲目をちらりと一瞥した倭文には、すぐに彼が無理しているのだとわかった。
 本当はかなり痛いはずなのに、やせ我慢をしている。
(ほんとに、妙なところで意地っ張りよね……)
 倭文は変に感心しながら、足先で軽く稲目の左足を小突いた。
「痛てーーっ!」
 途端、稲目は足を抱えてうずくまる。
「……ほら、やっぱり痛いんじゃない。素直に言ったほうが可愛いのに」
「だからって、こんなやり方するかあ!?」
 稲目は、大きな目に涙を浮かべて抗議する。
「てっとりばやくしただけよ。ほら、おいで。おぶってあげるから」
「い、いいよ、いくらあんたが怪力だからって、主に背負ってなんかもらえるかよ!」
「あ、恰好つけてる。子供のくせに」
 可笑しくなって、倭文は揶揄するように言った。
 そうすると、稲目はますますむきになって真赤になるのである。
「あ、あのう……」
 存在を忘れられかけていた青年が、不意におずおずと二人に声をかけた。
「--何?」
 倭文と稲目は、同時に青年の方に視線を向けた。
「よければ、僕がその子を背負いましょうか? そもそも、あなたの馬が逃げてしまったのも、その子が怪我をしたのも、僕が不注意だったせいなのだし……」
「……お前が?」
 倭文は、胡乱な青年を注視した。
 改めて見てみれば、青年は端正な面立ちをした、優しげな雰囲気の男だった。
 年頃は、倭文より少し上くらいだろうか。均整のとれた体つきはしっかりしていて、子供一人くらい背負って歩くのは造作もなさそうだった。
「どうせ、しじみを持って帰るつもりでしたし。でも、さっきので背負っていた籠はどこかへ落としてしまったし、大漁だったしじみもこの有り様ですからね」
 青年は寂しそうな笑顔で言った。
「……『しじみ』よりは、子供の方が重いわよ」
 言いながら、倭文は青年に対してふと疑念を抱いた。
 ただの『しじみ』取りにしては、随分といい衣を着ている。意匠は簡素だが、仕立てや素材はとても上等だ。
 髪だって、きちんと櫛を使って解き角髪を結っているではないか。やたらに腰は低いし変わってはいるが--どこか、物腰に品がある。
 --何者だ、これは?
「ねえ、いいよ、俺」
 稲目が恥ずかしそうに言った。
「いえ、本当に、お詫びをさせてください。御二人は、どこかへの旅の途中だったのでは
ないですか? 馬は高価だし、とても必要なものだ。それを、僕のせいで逃がしてしまっ
たのだから……僕が、目的の所までお送りします!」
 青年は拳を握り締めると、倭文に向かって突如決然と告げた。
「目的の場所って……まだ遠いわよ」
 青年の意気込みに驚いた倭文は、試すように言ってみた。
「構いません。どこですか?」
「……淡海」
「淡海!」
 『淡海』と聞いた途端、意外にも青年は、ぱあっと顔面に喜色を表わした。
「よかった! それは、僕の故郷です。ちょうど、今から宅(いえ)に帰るところだったんですよ。一緒に行きましょう、さあ!」
 嬉しそうに言うと、青年は素早い動作で、嫌がる稲目をさっさと背負ってしまった。
 彼はそのまま、葦の川辺に向かってすたすたと歩き始める。
「ちょっと、なんでそっちに行くの? 道は向こうじゃ……」
 進み出した青年の意図が判らず、倭文は困惑して彼を呼び止めた。
「舟で行くんですよ」
 葦の真ん中で立ち止まると、青年は振り返って倭文に言った。
「淡海へ行くならば、陸を行くより、そっちの方がずっと早いですよ。この先に、僕の乗ってきた舟がつけてあります。……ああ、そうだ。まだ僕の名を言ってなかったですね。僕は、深海(ふかみ)と言います」
「深海……淡海の深海?」
 早口言葉のような名を、倭文は口の中で転がした。
 どこか滑稽なようだけれど……それは、不思議とこの男に似つかわしいようでもある。