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「月傾く淡海」  第三章 月の淡海

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山の辺は、神山と王陵の道でもある。
 三輪山の麓を過ぎ、大足彦や御間城の大王の美陵を越え、平城へ向かって北上を続けていた倭文と稲目は、やがて道の終点でもある石上(いそのかみ)へとたどり着いた。
「……姫、とにかく淡海へ行くんだろ」
 倭文に付き随っていた稲目が、行き交う旅人の様子に目をやりながら言った。
 石上の近くには、古の神剣・布都御魂剣を御神体として奉じた大きな社がある。そのため社に仕える神官、また警護の兵、出入りする人々やそれを目当てに物を商う者達などで、なかなかの賑わいを見せていた。
「この先、どうやって進むつもり?」
「そうねえ……とりあえず、帯解から春日へ出て山背国へ入り、そこから近江を目指すってのが順当じゃないかしら?」
 倭文は記憶を反芻しながら答えた。
 実際には通ったことがないので知識だけだったが、多分それが一番確実なはずだ。
「ふうん……結構遠い道程だよなあ……。まだまだ、この先長いし……。ねえ、姫。だったらさ、いっそ」
 稲目は倭文を見上げて言った。
「ここで、馬を買わない?」
「馬?」
「そう。姫は並みの男よりよっぽど歩くの早いけど、それでも山背を抜けるまでにはまだ何日もかかるよ。幾晩も泊まることになると、その分危険も増えるし。馬を使えば、ずっと早くつけるよ。姫は、馬に乗れる?」
「一応はね。でも、別に急いでるわけでもないし……」
 そう言いかけて、倭文ははっと口を噤んだ。
 ふと、傍らの稲目の様子に目をやる。
 元気そうに振舞ってはいるが、明らかに稲目の顔には疲労の色が浮かんでいた。
(しまった。私の失敗だわ……)
 倭文は自分の注意が散漫だったことを密かに悔いた。
 なまじ、自分が細身のわりには体力に満ちあふれているので気づかなかったのだが、連れ歩いているのは僅か十歳の少年である。
 まだ体の出来上がっていない稲目には、倭文と同じ速度で旅するのはきつかったに違いない。
 海石榴市で出会って以来、稲目が生意気な口をききつつも、楽しそうに懐いて来るので、つい看過してしまっていた。
 長い間奴卑の生活を続けていた稲目が、主である倭文に、自分から「休みたい」などと言えるはずもない。
 このまま無理を続けさせて、稲目が病気にでもなってしまったら、彼を『買った』自分の責任だ。
「まあでも、山の辺の道もここで終わりだし。この先は、歩きにくい所に出るかもしれないしね。この辺で馬を買っておこうか」
 倭文が同意すると、稲目は嬉しそうに笑った。
「やっぱ姫は話が早いや。--そら、あそこにいっぱい並んでるよ!」
 稲目は倭文の手を引いて、近くの市に連れていった。
 旅人用に各種取り揃えてある馬の中から、稲目の助言をいれて手頃な物を選ぶ。旅の路銀として持ってきていた珊瑚の珠と引き換えに馬を手に入れた倭文は、稲目を後ろ側に乗せ、自らも鞍に跨がって手綱をとった。
「姫は普通の郎女とは違って剣とかの達人だからさあ。当然、馬の扱いもうまいんだろうね!」
 倭文の襲を握り締めた稲目が、期待に満ちた眼差しで話しかける。
「まあ、狩りに行ったこともあったわね……年に一回くらい」
「ええ!?」
 思わぬ返答に仰天して声を上げる稲目を無視し、倭文は馬の腹を蹴った。
「--ほら、行け!」
 倭文は威勢よく号令をかける。
 正直、馬の扱いはあまり得意ではない。
 だがまあ、動物は上位者に従う習性を持っているものだから、常にこちらが強気でいる限り、思い通りにできるだろう……と、倭文は適当に考えていた。
「ちょ、ちょっと、姫、揺れ、揺れ、る! もっと丁寧に……!」
 倭文にしがみつきながら、稲目は悲鳴をあげた。
「何よ、馬を買おうって言ったのは自分でしょ! しばらく飛ばすから……っていうより、それしか出来ないから、落ちないように自分で気をつけるのよ!」
「ええ、そんな……っ。ったく、ほんとに無茶な姫さまだよ、この人は……!」
 元の馬主があっけにとられ、周辺にいた旅人達が慌てて飛び避ける中を、二人を乗せた馬は全速力で疾走して言った。
 人が、木が、彼方の山が、回りの景色が一瞬で吹っ飛んでいく。
「ううう、ああああ………っっ」
 激しく揺れる馬上、真剣に前方を見据える倭文の横顔を見ながら、稲目は奥歯を噛み締め、馬が欲しいといった己の言動を激しく後悔した。


 ……しかし、結果だけいえば、馬を手に入れたことはある意味で幸いだった。
 倭文が周囲の迷惑も顧みず(というより、その余裕もなく)馬を長駆した結果、彼らはわずか一日たらずで山背国を抜けてしまったのだ。
 ちょうど山背国と近江国の境にあたる、瀬田川の右岸にたどり着いた頃には、さすがの馬も全速力で走る余力を無くしていた。
「……これが瀬田川ね。やっとここまで来たなあ」
 乗った馬をゆっくり歩かせながら、倭文は感じ入ったように呟いた。
「--やっと、ね……」
 倭文の後ろに座った稲目は、皮肉を込めて言った。
 一体ここまで来るのに、何回吐きそうになったことだろう。体の打ち身は数え切れない。
 しかしそれにしても、やはりこの葛城の姫はただものではない。
 稲目がこんなにぼろぼろになっているというのに、彼女はまるで平然としているではないか。
 この無尽蔵の体力は、並みじゃない。これもまた、葛城の古い純血がなせる業だというのだろうか?
 --だとしたら、自分のような傍系など、とても適わないが。
「この川の向こうが、近江なの?」
 稲目は気を取り直し、倭文に尋ねてみた。
「そうよ。綺麗ねー」
 倭文は川面を眺めながら、無邪気に感嘆する。
 彼女は山里で育ったために、普段見慣れない大きな水の流れなどを目にすると、つい過剰に喜んでしまうのであった。
 瀬田川は、淡海から流れ出ている唯一の川だった。その流れをもって、右岸を山背に、左岸を近江に分かつ役目を担っている。
 ここは東国から畿内へ入る要衝であり、その為に古くから政治的にも重要な拠点となっていた。
 瀬田川の河幅は広く、水量も豊かである。ゆったりと流れるその川面には、倭文の育った青垣の国々にはない、独特の開放的な風情があった。
 間もなく落ちようとする秋の陽が、川の水面にその残照を投げかける。時に金に、時に朱に輝くその煌めきは、深く心に残る水辺の夕照だった。
「……ここから、どうするの?」
 まぶしさに目を細める倭文に、稲目が尋ねた。
「もう少し向こうに、橋があるはずなんだけど」
 言いながら倭文は、北へ向かって馬を進めた。
 びっしりと葦の群生に覆われた川岸には、人の姿は見えない。
 ここは瀬田川の下流に当たるのでまだ閑寂としているが、唐橋がかかっている辺りまでいけば、もっと人気も多くなるはずだった。
「……でも、もうすぐ陽が落ちるよ。姫、今日は山背で泊まっておいた方がいいんじゃないの?」
「うーん、でも、それだと中途半端になっちゃうからねえ……わっ!!」
 倭文は慌てて手綱を引いた--が、既に遅かった。
 何かに驚いた馬が、急に前足をあげて激しく立ち上がったのだ。
「わああっっ」
「うわっ!」
 倭文と稲目は、共に悲鳴を上げた。
 二人は、同時に馬の背から放り出された。
「何よ、いきなりっ……!」