みどりをあおと呼ぶ
2.青葉(2)
大教室から出ていく生徒のほとんどは、友人と喋っていた。教壇には解答用紙を回収している先生がまだ残っていたから、声のボリュームに関してはわずかばかり潜められているが、つい先ほどまで着席して受けていた試験のことを心配そうに、あるいは自信があるのに確認したくて喋っている。
俺はそうしなかった。喋りたいことが無かったわけではなくて、単純に連れが居なかったから喋らなかった。手持ち無沙汰のときの癖で、無意識のうちに尻のポケットに手をやって携帯電話のフリップを開いたところで、電源が落ちていることに気付いた。そうだ、試験だったから。定期試験ではなく、この授業に限ったミニテストのようなものだったが何しろこれに合格しなくては単位に漕ぎ着けられない。手ごたえはそこそこあったので、俺はなんとなく清々しい気持ちになって、起動した電話の画面を見た。ああ指紋、拭かないと。
留守番電話、一件。メールは二件。どちらも園田からだった。
返信をするべきかどうかで迷う。終わったら連絡ちょうだい、昼飯食おう、そんなメールに何も考えず「今終わったところ」と返事ができずにいるのには訳がある。
ついこの間、誘われるままに授業をさぼって園田の買い物に付き合った。
断ろう、ノーと言おう、と思っていたというのに、気付いたら頷いていたから、自分で自分を裏切ったことになる。園田の声は、人を操る力でもあるのではないかとさえ思えた。だから身構えてしまったけれど、たいしたことはない、本屋とコーヒーショップに付き合っただけだった。至って普通、友人同士が連れ立って行くような場所で、当たり障りのない会話だけ。
警戒……というほどではないけれど、何かおかしなことを言われるかもしれないと思って緊張していた自分がちょっと滑稽に思いながらの別れ際、園田が乗るべき電車がホームに入ってきたところで「じゃあまた」と言ったら、園田は人好きのする笑顔で
「うん、またデートしようね、バイバイ」
と言い逃げして、さっさと車両へ乗り込んでしまった。
残された俺が人目を気にしてきょろきょろしたり、きょろきょろしたことでかえってデートが真実であったように見えたかもしれないと落ち込んだり、それらを全て血が上った頭(と顔)でしでかしたのは、俺だけの失態だ。
園田のせいだ、あいつ、ぞわっとする声を出すからあいつが悪い。
そう思っても、他の友人やゼミの人から園田の声について不満やクレームがあがっているのを聞いたことがないから人には言えない。誰か、俺の他にも、園田の声はちょっとおかしいと思う人が居ても良さそうなのに。
とにかく園田はだめだ。園田の言動を箇条書きでピックアップしても悪いところは特にないのに、言葉にしづらい空気がだめな気がするのだ。
帰り際に「デートしようね」と茶化された後、一人きりの電車で「相手に非はなくても自分がどうも変な動きをしてしまうのは危険だ、なるべく避けよう」と決めた。
こちらの決意を知ってか知らずか、あの日を境に頻繁にメールが来て電話が来て、お伺いを立てられる数だけ断るのは心苦しいせいで何度かは「いいよ」と答える。合流して飯を食うだけ、本屋に行くだけ、喫茶店でだらだらするだけなのに、一回につき数度は居心地の悪い瞬間が訪れる。じゃあまた学校で、と言う頃には俺の心はすっかり「やっぱり避けるべきだった」という方向に固まっている。
「青葉君」
携帯をぱたんと閉じて見なかったことにしたところへ声がかかる。ざらっとした声と、笑いを含んだ呼び方。
「……園田」
つまり、固めるのも、揺すって溶かすのも、全ての工程を園田は一人で行っているわけだ。
「わざわざ携帯見てるとこまで目撃した後だから、さすがの俺でも傷ついて動揺してすんごい悲しいんだけど」
「……」
「一緒に飯どうですかー、と思って。どう?」
避けていることが分かっているのに、なお食いついてくるのは一体何を目当てにしているのだろうと考えなかったではない。俺が金持ちだとか、そうでなくても他人に「おこぼれに預かろう」と思われるような要素が思い当たればまた別だろうけど。
園田は片手に携帯を持って、何が入ってんだか分からないけど重力で生地が下に下に行きそうなバッグを斜めにかけて俺の返事を待っている。他の友人と飯を食いに行く約束もしていない。構われ過ぎない友人関係を常日頃からありがたいなあと思っていたのに、こんな場面に出くわすとなると「誰か誘っておいてくれよ」と見当違いに八つ当たりをしそうになる。
問題は相手に非がない(ような気がする)ことだ。
構われてる、という居心地の悪さ。自分にしか感じないことと、自分にしか向けられていないらしいこと。
「……園田、俺さあ」
「ん? 学食やだ?」
「じゃなくて……俺、何かしたっけ」
「むしろしてないんじゃないの、たとえば俺にメールの返信とか折り返しの電話とか」
「じゃなくて」
事実だけどそういう回答を期待してるわけじゃない。質問の主旨を取り違えられている。
嫌いじゃないけど困るから、用が無いなら近づかないで欲しい。
他にそういう相手に遭遇したことがないので、俺はその中身を透かさずに相手に伝えるすべを知らない。だから直球で質問するしかなかったわけだ。
「…… 青葉君は何もしてないよ。あと、俺もまだ何もしてない。ご飯行こうよって言ってるだけ、図書館行くのに着いてってるだけ。そんで、そのうちヒマになったときには園田を誘ってやろっかなって、青葉君が思うようになればいいなーっていう打算っていうか何ていうか、そんな感じだけど、今の話にどっかおかしいとこあった?」
「……そんだけ?」
「そんだけー。納得したんなら駅んとこのカレー屋行かない? 今日はラッシーが50円の日だよ」
二秒、三秒。眉をしかめて分かりやすく「お前を疑っている」というポーズを作ってみたものの、俺自身だって一体何を疑っているのかよく分からなくて、結局は「じゃあ行く」といつものように懐柔されてしまう。
ラッシーにマンゴー味があるらしいと興味津々でテーブルに置かれたメニュー表を見せてくる園田に「俺、カレーは水でいい」と答えながら「いやいや、やっぱりおかしいだろ」と猜疑心……の、もっと柔らかいものが頭をもたげてきても、マンゴー味にしようかプレーンにしようかで迷っている園田には、もう何も言い出せなくなっているのだ。
よくよく考えれば、俺が知りたかったことは「だからお前は、俺と親密になってどうしようっていうんだ」という答えであって、その過程を細かく教えてもらったって意味はない。そう、目的だ、最終到達地点が知りたいのに。
向かいでカレーが来る間、ナプキンを折って遊びながらさっきまで受けていたテストの話を振ってくる園田に不審点はない。というか、不審点がないという不審点。
「あのさあ」
「どしたの」
「飯くらいならいくらでも付き合うけど、お前なんか、俺に隠してない?」
「隠してることも、訊かれてないから言ってないこともたくさんあるけど、取り急ぎ知らせなきゃなんないことは一個もない、ほんとほんと」