珈琲日和 その4
アート・ホーディスのインディアナが鳴り出して、店内は一気に映画の世界に変わりました。降り出した雨の音がまた何とも言えずに雰囲気を盛り上げています。お二人は本当にリラックスして、ゆったりと聞かれていました。僕はと言うと、正直、音楽に合わせて軽く慣れないステップでも踏みたい様な気持ちでした。自然に体が動いてしまいますね。
「私、蓄音機って初めてきいたんですけど、感動しました!ありがとうございます!」曲が終わると、真っ先に彼女が興奮して言ってきました。さっきまでとは、又違った意味で頰を紅潮させて、満面の笑みを彼ではなく蓄音機に向けていました。その少し隣で、彼は、腕組みしたまま黙り込んで目を閉じたままでした。
「いかがでしたか? 高音域はやや弱いのですが、広がりがある音で、個人的には気に入っているのですが・・・」不意に、彼が仁王様の様に目を見開き野獣の様に叫びました。
「俺は世界に行くぞー!そして、この目で、この音みてぇに素晴しいあらゆる物を見て来るんだー!」
僕はいきなりだったので少し驚いてしまい、危うく手元にあった電動ミルを落としそうになりました。彼女はビックリして、僅かに残ったカプチーノをこぼしてしまいました。
「そうですか。お気に召して頂けた様で良かったです」僕は、こぼれたカプチーノを拭きながら言いました。こぼれた量は多くなかったので、彼女に被害がなかったのが幸いです。僕は急いで新しいカプチーノを作ろうと準備し始めました。すると、彼女が小さな蚊の鳴くような声で言ってきました。
「マスター。あの・・・彼のと同じ物を作ってもらっても、良いかしら?いい匂いだったので、私も飲んでみたいなって・・・思って」彼女の顔は又しても、よく熟れた林檎みたいに真っ赤でした。
「かしこまりました」僕は彼の方を伺いながら囁きました。彼は決意を新たに、冷めたカフェオレを飲み干しているところでした。僕はそんな彼にさり気なく声をかけました。
「熱々をただいまお持ちいたしますよ。それに、良ければもう一枚あるので、かけようかと思っているのですが、いかがでしょう?」2人はほぼ同時に返事をした。「もちろん。お願いします!」
すっかり暗くなった外は、静かに秋雨が降り注ぎ、軒先から滴る雨垂れの音と相俟って、店内にはPatti PageのThe Tennessee Waltzが温かく優し気に、うっとりと聞き惚れているお二人をまるで包み込むように流れていました。
何ヶ月後かの寒い朝。僕が厚いマフラーをしっかり巻いて、店の前を掃いていた時、彼が大きなトランクを持って現れたのです。
「おう。マスター。おはようさん!」彼はいつもの仕事着ではなく、オレンジがかった朱色のダウンコートの下に、かなり厚手の黒いセーターを着込んで、トレッキングブーツの様なごついブーツを履いていました。
「おはようございます。どうしたんですか? こんな朝早く」僕は、まさかと思って聞きました。
「仕事は、昨日で終いにして区切りをつけたんだ。何せ、仕切る奴がいなくなっちまうってんで親方に引き止められていたんだが、さすがに金も貯まったし、いい案配に腕の良い奴が2、3人まとめて入ってきたから良い機会だと思ってな。辞めてきた。今日の昼、カナダ行きの飛行機に乗る!」やはり、いよいよなのだと僕は思い、同時にいつも隅っこに頼りな気に座っていた彼女の姿を思い浮かべました。
「最初はカナダですか。上等のメープルシロップがありますよ。良い運に恵まれるといいですね」
「おう!カナダを横断したら、アメリカに行って、それからヨーロッパに飛ぶつもりだ!」彼は意気揚々と話した。きっと彼なら怖い物はないでしょう。不可能を可能に出来るだけの力を、彼は全身から漲らせていました。
「じゃあな。いつになるかわかんねーけど、もしまた日本に帰ってくる事があって、まだ店が潰れていなかったら寄るよ」
「わかりました。それまで店を続けておきますよ。お元気で」
「おう!」そう言って、彼は変わらずストレートな声で、後ろ手に振り、大きなトランクを引きずって行ってしまいました。
彼が去ったすぐ後、朝日が眩しく差し込んで、暗く湿った裏路地の街路樹や店並みを神々しいオレンジ色に染めました。
その数日後の、よく晴れた昼。彼女が店に来ました。
僕は、彼女の嬉しい期待に胸を膨らませている顔を見た時、躊躇しましたが、思い切って彼が去って行った事を報告しました。彼女は、激しく動揺してしまい持っていた鞄を落としてしまいました。僕は慌てて、それを拾おうと屈み込んだのですが、ふと、タイルの床に小さな丸い水滴が幾つかできていて、更に上から落ちてくる温かい雫に気付きました。
「・・・ごめんなさい!」彼女は立ち上がって、お手洗いに駆け込みました。
無理もありません。僕は溜息をつき、彼女の為に、熱々の特別カプチーノを入れました。そして、昨日暇に任せて作った、なかなか出来の良いバターケーキを2切れお皿に乗せました。
彼女は目の下を真っ赤に腫らして戻ってくると、僕が差し出したカプチーノを、叱られた子どものようになって飲みました。
「ありがとうございます」バターケーキでいくらか気分が落ち着いた様子で、彼女が静かに言いました。
僕は、Yo-Yo MaのMenuettをかけました。大らかで優しいチェロの音が、彼女の傷を癒すみたいに力強く流れ出しました。その音は、澄んだ冬の空に吸い込まれるように、裏路地を抜けて何処までも流れて行く気がしました。
彼女はカプチーノを飲み終わると、少し微笑んで帰っていきました。
それが初めて見えたのは、その日の夜でした。お客様も早々に引いてしまって、雨も降り出したので、もう閉めようと思い、蓄音機でSP盤をかけながら片付けを始めていました。相変らずの良い音に、いい心地になってカウンター内を片付けて、トイレを掃除しに行って帰って来た時でした。ふと、小太郎がテーブル席の椅子にちょこんととまって、前方を凝視しているのに気付いたのです。
蠅でもいるのかな? そう思ったので、暗くしていた照明を明るくして、見やすくしてやろうとした僕の目にカウンターの端っこに座っている白い何かが映ったのです。思わず固まってしまいました。どうやら、小太郎はそれを見ていたらしいのです。
一体何でしょうか?僕は生唾を飲み下して、必死にその白いものの正体を見極めようとしました。
幽霊?それは、まるで何かの残像のようにも見えました。微かに人の形をしているみたいなのですが、色が薄くてよく判らないのです。
音楽が終わりました。すると、同時にそれも見えなくなったのです。僕と小太郎は顔を見合わせました。一体何だったのでしょう?
それから数日後の、やはり雨の降る夕方、お客様のご要望で蓄音機を鳴らしました。一瞬、あの白いものが又出るのではないかと不安になりましたが構わず、アートホーディスをかけてみました。僕が持っているSP盤は2枚だけだったのです。
幸い白いものは出て来ず、お客様は満足してお帰りになりました。僕はそのまま続けてPatti Pageをかけました。途端に、また出たのです。僕は思わず、拭いていたカップを落としそうになりました。