珈琲日和 その4
皆さんは蓄音機の生音を聞いた事があるでしょうか?
僕は初めてこの店に蓄音機が来て、その時に聞いた音があまりに素晴しく感動したのを覚えています。音の立体感だ迫力だと求められている時代の最新の音を聞いても、この蓄音機の音程驚かなかったのです。僕自身がそんな古めかしい音を好むと言う事ももちろんありますが、それを抜きにしても是非一度聞いて頂きたい音なのです。
その方は、毎週金曜日の夕方にいらっしゃってました。綺麗な肌をした女性で、歳は30前後くらいだと思います。いつも後ろで形よくシニョンに結っていて、影の出来る様な長い睫毛が印象的でした。会社帰りのようなカーディガンにオフィスカジュアルっぽい格好をしていました。
「今晩はマスター。ホットカプチーノをお願いします」その方は手入れの行き届いた朝紫色の爪が並んだ手を少し顔に添えて注文します。それから、文庫本を取り出して頬杖をついて、読み始めます。時々、規則的に時計に目をやりながら。
喫茶店に訪れる方は、当たり前ですがそれぞれに違う時間の過ごし方をします。打ち合わせに使う方、時間潰しに使う方、待ち合わせに使う方、一人の時間を楽しむ為に使う方。自由です。なので、時計を気にする方ももちろんよくいます。ですが、その方の様に時計と文庫本を頻繁に行ったり来たりする方はあまりいませんでした。
「お待たせしました」僕は静かに、丁度時計から目を離したその方の前に、カプチーノをお出しました。
「あ、ありがとう」彼女はそう言って慌ててカップに指を添えました。初めはどうして彼女がそんな落ち着きなく緊張しているのか、わかりませんでした。性分なのかもしれませんし、少し気持ちに余裕が足りてないのかもしれません。どちらにしても、美味しく珈琲を召し上がって頂ければ、そんな事は僕にとっては何の問題にもならなかったのです。
扉が開いて、鳶職人らしき風貌の男性が入ってきました。顔は埃塗れ、手は泥だらけといった有様です。遠慮がちにカウンターの端っこに陣取り、「マスター!カフェオレ!例のやつ!熱ーいの一杯頼むわ!」と良く通る、真っ直ぐな声で注文しました。その声を聞くと、反対側の隅にいた彼女は急に固まって、俯いてしまいました。
「かしこまりました。今日は、残業を免れたんですね。明日は雨みたいですし、ゆっくり休めるじゃないですか」
「おう。そうなんだよ。ま、毎回ってぇわけにゃいかねーけどな」彼はにこやかにそう言って、お手洗いに手を洗いに行きました。彼女は、今やすっかり時計も文庫本も放り出して、念和でもしている見たいな感じで、ほとんど瞬きもしない位に、じっと微かに湯気の立つカプチーノと見つめ合っていました。
「おし」独り言にしては大き過ぎる声で言いながら、彼が腰から提げた手ぬぐいで手を拭きながら、戻ってきて座りました。一瞬だけ隅っこで縮こまっている彼女の方を見た様子でした。
「お待たせいたしました」僕は彼の前に熱々の特製メープルカフェオレをお出ししました。メープルシロップがたっぷり入った彼専用の特製です。柔らかい甘い匂いが、お香を焚く様に一斉に香り立ちました。
「おう!これこれ。かぁっー!相っ変らず、カナダの別嬪な匂いさせやがってー」彼は顔を綻ばせ、まずは一口ごくり。
言ってる事は少々荒いのですが、彼の声は、高原の朝に響き渡るカッコウみたいに清々しくて、何か人を元気にさせる力があるように感じます。
「俺ぁよぉ、世界一周をするのが、ガキの頃からの夢なんだ。その為に、なーんも資格もなくても、カラスカラス言われようが何があろうが、齷齪働いて金を貯めてんだからな」
なんと純粋な事でしょう。僕はこの言葉だけで、十分彼を好きになれる自信があります。が、そんな言葉とは裏腹に彼は、真っ黒に日焼けしたスキンヘッドに白タオルを巻き、顎髭をはやし、鋭い鷹の様な目と、がたいの良い長身で、一瞬近付くのを躊躇ってしまうような種類の外見をしていました。肩で意気揚々と風を切って歩いたり、粗野な言葉遣いや言い回しに紛れてしまいそうな彼の心は、直接話してみなければわからなかったのです。
なので、彼女がいつ、彼と話をしたのか、いつそんなきっかけがあったのかは、僕には全くわかりませんでした。けれども、いつしか彼女は、毎回必ずこの時間帯に現れる様になりました。
彼女は決して自分から、彼に話しかけようとはしませんでした。照れていたのか、恥ずかしがっていたのか、将又話しかけられないくらいに心底惚れていたのか・・・それは、僕にはわかりません。
わかっていたのは、彼女は彼がいる時間を掛替えのない程大切に、楽しみにしていたという事です。
「お、マスター!いいの置いてあんじゃんか。渋いねぇ。俺ぁ、こいつで聞く音が格別に好きなんだ。何しろガキの時分、近所の古道具屋に置いてあるのを初めて聞いたんだが、衝撃だった。当時は演歌くらいっきゃ、知らなかったからな。ジャズかアメリカンポップあたりが流れていたんだろうと思うが、俺は世界は広いんだなって思ったな。毎日の様に通い詰めたさ」
彼は、瞳を切れ長の岩間から覗いた宝石の原石みたいに輝かせて、熱く語っていました。
「そして、世界一周を決意したわけですか?」僕は、他のお客様が注文したナポリタンを作りながら聞きました。
「当り!てめぇの目で世界を見てやろうってな!」彼は朗らかに言い、満足そうにカフェオレをまた一口飲みました。
「この世に産まれたからには、ですね」そう言って、僕は出来上がったナポリタンを皿に移し、奥のテーブル席のアベックのお客様に運んで行きました。
「僕も蓄音機には些か思い出がありましてね。と言ってもラッパ型の方ですけど。これはゼンマイ式でホーンが木箱と一体になってますけど、箱に共鳴させた音が又なんとも言えず柔らかい。なかなかどうして良い音ですよ。いかがですか? 一曲」僕はカウンターの中からSP盤を一枚出した。
「おお!もちろん聞かせてくれ。マスターにしては、やけに話が長かったから、まさか話だけで終わるんじゃねーかと、ヒヤヒヤしたぜ」彼がカフェオレを脇に避けて乗り出しました。
「では、他のお客様にも了承を取ってきますので、少しお待ち下さい」僕は笑って、隅の彼女の方を見ましたら、彼女は珍しく顔を上げていて「構いません」とハッキリ言ったのです。
「別嬪さん、どうも!あんがとな!」僕の代わりに、先を越して彼がストレートな声でお礼を言いました。彼女はその声をモロに受けて、顔が見る見る真っ赤になっていき、今にも泣き出しそうでした。
丁度、奥のカップルのお客様が食べ終わり、連れ立って席を立ち、お勘定を払い出て行きました。
「あの2人、これからどっかに、しけこむつもりだぜー。かぁっー!やってんなぁー!どっちみち、丁度良かったな」なんて彼が茶化したので、彼女は増々頰を染めて、モゴモゴしながら俯いてしまいました。やれやれ。
僕は蓄音機の蓋を開けて、中にSP盤をセットしました。そして、ゼンマイを巻きました。
僕は初めてこの店に蓄音機が来て、その時に聞いた音があまりに素晴しく感動したのを覚えています。音の立体感だ迫力だと求められている時代の最新の音を聞いても、この蓄音機の音程驚かなかったのです。僕自身がそんな古めかしい音を好むと言う事ももちろんありますが、それを抜きにしても是非一度聞いて頂きたい音なのです。
その方は、毎週金曜日の夕方にいらっしゃってました。綺麗な肌をした女性で、歳は30前後くらいだと思います。いつも後ろで形よくシニョンに結っていて、影の出来る様な長い睫毛が印象的でした。会社帰りのようなカーディガンにオフィスカジュアルっぽい格好をしていました。
「今晩はマスター。ホットカプチーノをお願いします」その方は手入れの行き届いた朝紫色の爪が並んだ手を少し顔に添えて注文します。それから、文庫本を取り出して頬杖をついて、読み始めます。時々、規則的に時計に目をやりながら。
喫茶店に訪れる方は、当たり前ですがそれぞれに違う時間の過ごし方をします。打ち合わせに使う方、時間潰しに使う方、待ち合わせに使う方、一人の時間を楽しむ為に使う方。自由です。なので、時計を気にする方ももちろんよくいます。ですが、その方の様に時計と文庫本を頻繁に行ったり来たりする方はあまりいませんでした。
「お待たせしました」僕は静かに、丁度時計から目を離したその方の前に、カプチーノをお出しました。
「あ、ありがとう」彼女はそう言って慌ててカップに指を添えました。初めはどうして彼女がそんな落ち着きなく緊張しているのか、わかりませんでした。性分なのかもしれませんし、少し気持ちに余裕が足りてないのかもしれません。どちらにしても、美味しく珈琲を召し上がって頂ければ、そんな事は僕にとっては何の問題にもならなかったのです。
扉が開いて、鳶職人らしき風貌の男性が入ってきました。顔は埃塗れ、手は泥だらけといった有様です。遠慮がちにカウンターの端っこに陣取り、「マスター!カフェオレ!例のやつ!熱ーいの一杯頼むわ!」と良く通る、真っ直ぐな声で注文しました。その声を聞くと、反対側の隅にいた彼女は急に固まって、俯いてしまいました。
「かしこまりました。今日は、残業を免れたんですね。明日は雨みたいですし、ゆっくり休めるじゃないですか」
「おう。そうなんだよ。ま、毎回ってぇわけにゃいかねーけどな」彼はにこやかにそう言って、お手洗いに手を洗いに行きました。彼女は、今やすっかり時計も文庫本も放り出して、念和でもしている見たいな感じで、ほとんど瞬きもしない位に、じっと微かに湯気の立つカプチーノと見つめ合っていました。
「おし」独り言にしては大き過ぎる声で言いながら、彼が腰から提げた手ぬぐいで手を拭きながら、戻ってきて座りました。一瞬だけ隅っこで縮こまっている彼女の方を見た様子でした。
「お待たせいたしました」僕は彼の前に熱々の特製メープルカフェオレをお出ししました。メープルシロップがたっぷり入った彼専用の特製です。柔らかい甘い匂いが、お香を焚く様に一斉に香り立ちました。
「おう!これこれ。かぁっー!相っ変らず、カナダの別嬪な匂いさせやがってー」彼は顔を綻ばせ、まずは一口ごくり。
言ってる事は少々荒いのですが、彼の声は、高原の朝に響き渡るカッコウみたいに清々しくて、何か人を元気にさせる力があるように感じます。
「俺ぁよぉ、世界一周をするのが、ガキの頃からの夢なんだ。その為に、なーんも資格もなくても、カラスカラス言われようが何があろうが、齷齪働いて金を貯めてんだからな」
なんと純粋な事でしょう。僕はこの言葉だけで、十分彼を好きになれる自信があります。が、そんな言葉とは裏腹に彼は、真っ黒に日焼けしたスキンヘッドに白タオルを巻き、顎髭をはやし、鋭い鷹の様な目と、がたいの良い長身で、一瞬近付くのを躊躇ってしまうような種類の外見をしていました。肩で意気揚々と風を切って歩いたり、粗野な言葉遣いや言い回しに紛れてしまいそうな彼の心は、直接話してみなければわからなかったのです。
なので、彼女がいつ、彼と話をしたのか、いつそんなきっかけがあったのかは、僕には全くわかりませんでした。けれども、いつしか彼女は、毎回必ずこの時間帯に現れる様になりました。
彼女は決して自分から、彼に話しかけようとはしませんでした。照れていたのか、恥ずかしがっていたのか、将又話しかけられないくらいに心底惚れていたのか・・・それは、僕にはわかりません。
わかっていたのは、彼女は彼がいる時間を掛替えのない程大切に、楽しみにしていたという事です。
「お、マスター!いいの置いてあんじゃんか。渋いねぇ。俺ぁ、こいつで聞く音が格別に好きなんだ。何しろガキの時分、近所の古道具屋に置いてあるのを初めて聞いたんだが、衝撃だった。当時は演歌くらいっきゃ、知らなかったからな。ジャズかアメリカンポップあたりが流れていたんだろうと思うが、俺は世界は広いんだなって思ったな。毎日の様に通い詰めたさ」
彼は、瞳を切れ長の岩間から覗いた宝石の原石みたいに輝かせて、熱く語っていました。
「そして、世界一周を決意したわけですか?」僕は、他のお客様が注文したナポリタンを作りながら聞きました。
「当り!てめぇの目で世界を見てやろうってな!」彼は朗らかに言い、満足そうにカフェオレをまた一口飲みました。
「この世に産まれたからには、ですね」そう言って、僕は出来上がったナポリタンを皿に移し、奥のテーブル席のアベックのお客様に運んで行きました。
「僕も蓄音機には些か思い出がありましてね。と言ってもラッパ型の方ですけど。これはゼンマイ式でホーンが木箱と一体になってますけど、箱に共鳴させた音が又なんとも言えず柔らかい。なかなかどうして良い音ですよ。いかがですか? 一曲」僕はカウンターの中からSP盤を一枚出した。
「おお!もちろん聞かせてくれ。マスターにしては、やけに話が長かったから、まさか話だけで終わるんじゃねーかと、ヒヤヒヤしたぜ」彼がカフェオレを脇に避けて乗り出しました。
「では、他のお客様にも了承を取ってきますので、少しお待ち下さい」僕は笑って、隅の彼女の方を見ましたら、彼女は珍しく顔を上げていて「構いません」とハッキリ言ったのです。
「別嬪さん、どうも!あんがとな!」僕の代わりに、先を越して彼がストレートな声でお礼を言いました。彼女はその声をモロに受けて、顔が見る見る真っ赤になっていき、今にも泣き出しそうでした。
丁度、奥のカップルのお客様が食べ終わり、連れ立って席を立ち、お勘定を払い出て行きました。
「あの2人、これからどっかに、しけこむつもりだぜー。かぁっー!やってんなぁー!どっちみち、丁度良かったな」なんて彼が茶化したので、彼女は増々頰を染めて、モゴモゴしながら俯いてしまいました。やれやれ。
僕は蓄音機の蓋を開けて、中にSP盤をセットしました。そして、ゼンマイを巻きました。