長い夜
4
タバコのやりとりの後もしばらく会話をした。あまり遅くなってもいけないので、二時できりをつけたのだが、話の最後に彼女は「私もこのカブでいつか旅に出てみたい」と言い出したので驚いた。
若いうちにいろいろチャレンジをしたほうがいいと、大いに賛成した。自分の影響でバイクに新たな可能性を見出してくれたのなら、嬉しい。
「じゃあ、気を付けて」
そう言うと、彼女は敬礼するかのような仕草をして身を翻し、颯爽と去っていった。
微弱なカブのヘッドライトの明かりはみるみるうちに遠ざかり、暗闇のカーテンに吸い込まれていく。再びマグライトだけの明かりになったことにより、辺り周辺の空気は先ほどまでよりもいっそう冷たく感じられた。
バス亭の内部には小さな白熱球が備え付けられていたが、電球は切れていた。
しばらく交換していないのだろうか、はたまた必要としていないのだろうか? たしかに時刻表を見る限り陽が落ちる十七時以降の発着はない。存在自体、忘れられているのだろう。
二メートル四方の小屋の内部には木製のベンチが建て付けられていた。中央には灰皿に使っていたと思われる大きな缶詰の空き缶が、アルミの土台の上に乗せてあった。ここで湯でも沸かせば暖はとれそうだ。
バイクはバス停の裏に停め、荷台から必要な物だけを降ろすと、小屋の中に持ち込んだ。
まずはガス式のランタンに火を入れ、照明を確保する。続けて、冷えた体を温めるために着替えをした。入り口にはドアがなかったので、敷布用に持ってきていたメキシカン・ラグで覆い隠した。警察に見つかったらならきっと厳重注意を受けるだろうが、寒さを乗り切るには必要な措置だ。現代の警官にも人情があるのなら見過ごしてくれるだろう。万が一があったら逆に派出所にお世話になってしまおう。そちらの方が温かそうだ。
続けて湯をわかし、コーヒーを煎れる。巷にはバーベキューができるくらいの道具を持ってツーリングをしている人もいるが、自分は鍋とヤカンくらいしか持ち歩かない。そのかわりといってはなんだが、コーヒーだけは豆を持ち歩き、わざわざ挽いてまでして飲むようにしている。最初の頃はインスタントコーヒーを持ち歩いていたのだが、数年前、四国のキャンプ場で出会ったライダーにご馳走になったコーヒーの旨さに感動してからは、彼の真似をし、こうしてドリップして飲むようになった。
豆が挽かれる音、香り、ゆっくりと抽出されていく間のひととき・・・・・・。これに野外の空気がブレンドされると、格別なのだ。網を広げて肉を焼く行為とはひと味違った、小洒落た贅沢な時間だ。
ミネラルウォーターが沸騰しかけたところで、挽いた豆を入れたペーパーフィルターに湯を注いだ。室内に広がるコーヒーの香り。老朽化したバス亭がほんのひと時だけ、珈琲店に様変わりしたようだった。
お湯を沸かしたことによって、室内の気温も徐々に上がってきた。老朽化しているとはいえ、隙間なくピッチリと建てられていた小屋の断熱能力は想像していたよりも高かった。 まだまだ寒くなる事が考えられるが、できれば火で何かを燃やすといった事はしたくはない。煙から誰かに通報されたら事だし、第一、一酸化中毒になってしまう。
ミネラルウォーターはまだたっぷり二リットルある。ゆっくりと弱火で蒸気を利用し、室温を上げていけばよいだろう。
靴を脱ぎ、ベンチにあぐらをかいて地図で明日のルートを再確認する。
一応、大きな街を通る道をチェックした。整形外科でも見つけたら寄ってゆくつもりだ。ビニール袋に水を入れて患部を冷やし、とりあえずの応急処置はしてみたものの、診察次第ではツーリングの中止も止むを得ないかもしれない。
コンビニで買っておいた菓子パンを一つ食べ、コーヒーを二杯飲み干した。胃が落ち着くと、急に眠気に襲われた。地図が手のひらから滑り落ちた音で「はっ」とする。このまま寝てしまって風邪にでもなろうものなら、それこそ病院送りだ。
重い腰を上げ、寝ぼけ眼のまま、ずるりとバッグの奥底から寝袋を取り出した。湿り気を帯びた体のまま寝袋に入るのはできれば避けたいのだが、この寒さでは背に腹は変えられない。
ベンチに横たわると、頭までスッポリと寝袋に潜り込む。お世辞にも寝心地は良いとはいえないが、奮発して購入した高級アウトドア・ブランドの寝袋は、この程度の寒さにはビクともしない充分すぎるほどの保温力を備えていた。
あいかわらず左手は、ジンジンと痛んだ。