長い夜
3
何度も帰るように説得したが、彼女はカブのエンジンを始動させたまま歩いてついてきた。ヘッドライトの明かりで夜道をサポートしているつもりのようだ。俺はというと相変わらず背を向けたまま歩き続けている。
ヘッドライトが時折、暗くなったり明るくなったり、不規則なリズムで前方を照らした。もう、しばらくお互い無言のままだ。いつまでついて来るつもりなのだろうか? ヘッドライトの明かりはたしかに助かるのだが、やはり、このままずっと付き添いをさせるわけにはいかない。少しずつ歩調を速めてみるが、一歩、二歩、力を込めるたびに疲労していくのが自分でもわかった。
この気温では服も乾く気配はない。一人なら茂みにでも隠れて着替えをするところなのだが、彼女がいるおかげでそれもできなかった。「着替えるから後ろを向いていてくれ」なんて事も言えず、ただ、寒さに耐え、気力だけで進む。
三十分くらい経っただろうか。ふと、前方に小屋のようなものがうっすら、ぼんやりと見えてきた。古ぼけた、ツタの巻きついたその木製の建物はバス亭のようだった。
雪が降る地方独特の、屋根つきの小屋になったバス亭だろう。
・・・・・・・そうだ、あそこなら暖をとるのには絶好の場所だ。
「おっ、バス亭だな、ありゃ」
わざとらしく声に出した。
「あ、そうですね。でもバスはまだきませんよ?」
「そうじゃない、あそこでキャンプを張ることにするよ。まだ大した距離は歩いてないが、予想以上に体力の消耗が激しいようだ。もうあまり長い時間、歩いていられそうも無い。あそこで暖をとって夜が明けるまで寝て待つよ」
「そうですか・・・・・・」
少し無機質に立ち振る舞うと、さすがに迷惑だと感じたのか、小さな声でつぶやいた。
その力ない言葉が何を意味していたのかはわからない。力になれなかった事への悔しさか・・・? いや、今はゆっくりと休みをとることだけを考えよう。
「ああ。それに朝になれば、トラックかなにか通りかかるだろ。そしたらさっきみたいにして止まってもらうよ」
「自殺行為じゃないですか」
「簡単には死なねぇよ」
「でしょうね」
ストレートな子だ。ヒネリの利いた嫌味に腹が起つところだろうが、なんとなく可愛く思えてきた。不思議なものだ。再びバス停に向かって歩を進める。
彼女は誕生会の帰りだと言っていた。今日は彼女の誕生日らしい。
友人が企画してくれたパーティに招かれたのだが、三次会にまで付き合わされてこんな時間になってしまったそうだ。荷台の大きな荷物は誕生日プレゼント。等身大の『ウサビッチ』とやらのぬいぐるみらしい。聞いてもいないのに、彼女は饒舌にそんな話をしてくれた。
「いくつになるんだ?」
「十九です」
「若ぇなぁ・・・・・・」
「おじさんは?」
「おじさん言うな。まだ三十だ」
「おじさんじゃん!」
やはりおじさんに映ってしまうのだろうか。こうも断言されてしまうと、それなりに若いつもりでいたせいもあってか、少しばかりショックだ。
「名前は?」
「凛子。おじさんは?」
「おじさん」
「なにそれ! ずるい!」
軽く仕返しをする。すると彼女は唇を尖らせ拗ねた様な仕草をすると、カブに跨りスピードを上げ、俺の横を追い抜いていった。
すれ違い様、風に乗って送られてきた女性の香り。あどけない笑顔・・・・・・子供扱いをしていたが、彼女は大人の女性の魅力を充分に秘めていた。俺は、胸の高鳴りを覚えた。
自然と笑みがこぼれる。若さというものは伝染するのだろうか? ほんの数十メートルの間、こんなくだらないやり取りをしただけで、何年も若返ったような気がした。
さっきまでは一人になりたかった筈なのに、早くバス亭にキャンプを張って朝を待ちたかった筈なのに、不思議だ、今はバス亭までの残り少なくなった道のりが、なんとももどかしく感じた・・・・・・。
ほどなくしてバス亭に着いた。
電柱に設置された外灯の眩しい明かりが、少しだけ現実に戻してくれた。
もう一歩、現実に戻る為にタバコを・・・・・・取り出そうとしたが、投げ捨ててしまったことを思い出した。軽く舌打ちをする。
「どうかしたんですか?」
「いや、タバコをね。吸おうと思ったんだが、切らしてたの思い出しただけ」
「あ、アタシ、持ってますよ」
「タバコ、吸うのか?」
「いえ・・・・・・でも、持ってます」
彼女がリュックサックのサイドポーチから取り出したのはマールボロのメンソールボックスだった。ライターも持っていた。
タバコを持っているが、吸わない。なんだ、コブつきか。『彼氏のかよ』なんて言い返すこともできたが、野暮なことはあえて言わなかった。
「じゃあ、有難く、一本・・・・・・」
一本だけいただくよ、そう言おうとして、手を伸ばした瞬間、スッと、彼女は俺のジャケットのポケットにマールボロを差し込んだ。
「全部あげます。ライターも」
間近に、目前に現れた彼女の笑顔。全身の血管という血管から脳へ急速に血液が集まってきた。ぽかんと口を開け、間抜けな顔をしているだろう。しかし、動けなかった。脳の命令系統は次の行動を発信しようとしなかった。「なにをしている! 動け!」必死に舵をとろうと操縦席から呼びかけるが、レッドアラートは鳴り止まなかった。
「? タバコ、欲しいんじゃないんですか?」
「あ、ああ」
我に返った。彼女は不思議そうな顔で俺を見ている。
ふいに怪我をした左手で胸ポケットに手をかけた。痛みが走ったがそれでもなんとか左手で取り出すと、ぎこちなくタバコを咥え、火をつけた。
一気に肺を煙で満たしていく・・・・・・。強めのメンソールによって血の気が引いてゆくのがわかった。ゆっくりと理性を取り戻していく。
『これでいい、これでいいんだ』
かすかに湧き上がった感情を、形になる前に煙にして吐き出した。