POOL
開きっぱなしの扉の縁を掴んで、伯爵は何の気はなしに弄ぶ。キィキィと悲鳴を上げる扉をじっと見つめる。
何も言えなかった。自分の話だった筈が、助手の言うことは段々助手自身のことになって、最後にはとうとう矛盾していたが、それでもそれを指摘する言葉さえ出てこなかった。
その上きっとあの助手は自身の比喩を、自分が理解できないと思っている。一人よがりが好きな若さ、だから。
ああこれは私の完全な偏見だ。
キィキィ。加虐的愉悦。否、これは自分の悲鳴だ。
泣ける女が羨ましい。私は泣けないから、こうして他のものに泣いてもらうしかない。
「……」
ふと伯爵は誰かの声がするのに気づき、手を止めて廊下へと出た。
それが今一番見たい人の声であるような気がしたから。
「……」
その声はどうやら控室の一つから聞こえてくるようだ。そこが誰の控室かを思い出し、心にほんのりと淡い喜びが広がる。探偵の報告も助手の意見も自分の状況も相手の状況も忘れた、純粋な気持ちだった。
勿論この直後に伯爵に湧き上がってくる気持ちもまた、純粋なものなのだが。
声のする部屋の扉から、うっすらと光が漏れている。
伯爵は足音を立てず扉の前まで移動していた。
伯爵は扉を誰にも気づかれずにそっと開けた。
伯爵は声の主が伯爵の想像通りだと気づいた。
伯爵はしかしその声がおかしいことも知った。
目の前の白いベッド。
伯爵の目は、そこに釘付けになった。
夜の気配が寒気となって伯爵の背中を撫でる。最早胸中に滾るのは喜びなどではなかった。今までの思い出と、嫌になる程に鋭くなってしまった推測や予感や詮索と言ったもの、心を押し止めようとする伯爵の言う「自分を自分たらしめるもの」、そして先走ったほんの少しの喪失感と敗北感と。それらの感情が、バイオリンの弦が切れたかのように、脆く緊張しながらも、一気に弾け飛んだ。
その時伯爵ははっきりと、自分が獣のような無音の咆哮をしているのを感じた。
「休憩終了五分前です」
頭を垂れるスタッフの前で、伯爵はカシン、と短刀をベルトに収めた。
別室では三羊と島狐が二人並んで、迎えにきたスタッフを労っていた。
舞台袖では探偵がスタッフと談笑しながら幕の上がるのを待っていた。
客席では観客達が休憩を終えて着席し、劇の続きを観ようとしていた。
劇場の外では助手が眩い光に包まれた劇場を背にし、歩き始めている。
伯爵の短刀がリハーサル時よりも鋭利なことに、誰も気づかない。
伯爵の双眸が刃と同様、深く澄んでいることに、誰も気づかない。
だがしかし、劇の幕は再び上がった。