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詰まらない話かもしれないが、私はそれなりに、上流の家庭で育ってきたつもりだった。それなりのプライドを持って、それなりの偏見もあった。
だが三羊マリは、自分のそんなプライドや偏見を忘れてまで初めて好きだと思った人だった。マリは私の家柄や富ばかり見ているとわかってはいたけど、私と同じ様に、それらを取り払って残る私のことも見ているのではないかと期待もしていた。マリはたまにそう感じさせる表情をしたし発言もしたし行動もとった。私はそれだけで幸せになれたが、忘れていたはずのプライドが起き上がってきたのもこの時だった。長年をかけて積み上げられたプライドはたまに私の行動を妨げることがあって、私は私の思った通りのことができないことがあった。苦痛だと思ったが、私はそれを無視した。
マリが不義に走ったのも、恐らく私のこのプライドのせいだと思う。だけど私は確かめる勇気がなかった。それも無視した。
不審な男がうろついていると聞いた時は、心の底から不安になった。だから伝手を辿ってまでして、有名な探偵を呼び出した。だが恥も外聞も捨てた行為だったのに、プライドも偏見も追い払った行動なのに、この結果は何だろう!
屈辱を受けて侮辱を感じ、私のプライドも偏見も実はまだ生きていたのだ、と今確信している。哀しいとは思わない。私を私たらしめるものを捨てることと、マリと一緒にいることが等価であるとは、もう考えられない。全てを知っても尚、このまま大人しくしていることなどできない。できる訳がない。
だが自分は、何をしたいのかわからない。マリを追い出したい一方で、まだここにいて欲しいなどとも考えている。或いは追い出すのではなく、もっと残忍なことをしようとも思っている。私を私たらしめるものの意向と、混乱する私の本音とが擦り合わない。決心が、決心が足りないような気がするのだ。
そう助手に伝えると、彼は何かを考えるかのように目を伏せた。
顔全体に塗られた白。
大袈裟に表現された口の赤。目もとの泣きぼくろの青。
右目の下、涙を模してマークされた黒。
伯爵の顔は伯爵自身にはそぐわないようで、見事なまでに一致。
一方の纐纈少年はやはりふさわしい言葉が見つからないのか。しかしその内ゆっくりと、彼は口を開いた。
「僕ね、最近毎月故郷から手紙が届くんです。母が、就職のことを聞いてくるんです」
話の飛躍についていけないだろうという纐纈の予想をよそに、冷静に伯爵は返した。
「君は探偵事務所で働くのではないのか」
「そのつもりはなかったんです。僕は何をするつもりかは決めてなかったけど、学校にいた時からとにかく一人で生きていくつもりでいました。下働きなんかじゃあなくって、例えるなら虎谷さんのように自立した人間として働きたかった」
今とは大違いですよね、と一人言のように声が出た。
「でも世間は広い。僕のような人間は沢山いて、しかも皆僕とは違う」
「違う、とは」
「上手く言えないです。ただ皆僕よりずっと優秀で、僕よりずっと才能があって、きちんと前を向いて生活できている。それが僕とは違う。僕は社会で上手くやっていけるのかって不安で満ちている。虎谷さんの助手として働くことですら満足にできない。それなのに僕は、邁進する努力すらしようとしない。ただ漫然と日々を過ごしている。言葉にすると莫迦みたいでしょう。ひたすら生きたい生きたいと我儘を言って、何もしないで絶望しているんです。どうしてでしょうね」
「そんなに気張らなくても大丈夫だよ。誰だって最初はそういうものさ」
「気張る?気張ってなんかいません。僕は何もしていないんですよ。虎谷さんのようになりたいと思いながら、僕は実際何もできないんですよ。それが苦痛なんです。大学に入る前は、こんな思いをする位なら死んだ方がマシだ、なんて偉そうなこと言うようなギリギリを歩く振りだけで十分満足できたけど、今はそんなことできない。現実に直面して、まさかこんな思いを抱くなんて思いもしなかった」
例えば虎谷さんは、劇の途中で伯爵に全てを話すと言った。僕は混乱を避けるため、劇の後にすべきだと思った。その違いが、大きいのだ。
「虎谷さんと比べるのは少し……ツラいよ。あの人は立派な人だ」
「僕は虎谷さんのようになりたかったんです。大それたことかもしれなかったけど」
僕は顔を上げて、伯爵の目をじっと見た。
「例えるならば、プールの中にいるようなものですかね。虎谷さんはそのプールの中を綺麗に泳いでいるけど、僕は泳げなくって、溺れ続けているんです。プールの底に沈みたくないし溺れたくもない、泳げるようになりたいって思いながら、ずっと溺れ続けているんです」
溺れるのが怖いから泳ぐ。
底が怖いから溺れている。
そうじゃないそれは違う。
今この瞬間が苦しくって。
僕は溺れ続け溺れ続けて。
何とか酸素を吸っている。
伯爵はきっと、この矛盾を理解できないんだと思う。伯爵は社会に拒絶されたことのない、真っ当に生きてきた人間だ。
その人が今、何かをしようとしている。
そう思ったら、無意識のうちに言っていた。
「伯爵、貴方は綺麗に泳げているんですよ。真っ当に生きられているんです。真っ当に生きられる人間が自ら、溺れてはいけません。決して楽しくは、ないのです」
開け放たれていた扉から、そのまま僕は逃げるように走り出た。きちんと核心がつけたとは思えないし、全然爽やかには部屋を出られなかった。劇の続きも知ってしまったし、僕はそのまま帰ろうと思う。