POOL
外は劇場の賑わいが嘘であるかのように、静寂と暗闇に満ちていた。頬を撫でる風に冷気が混じっているのを感じながら、僕は伸びを一つ、進み出す。夜道を一定間隔の街灯が、静かに照らしている。
とにかくこれで全て終わったのだと思うと、いつも以上の疲労を感じた。
想像もできない、未だ遠くに感じられる探偵の仕事ぶり。自分には到底作り上げられない伯爵の舞台。教育された筈の道徳を忘れた三羊の不倫。受けた恩恵と忠義を踏みにじった島狐の浮気。矢張り無理だ。あんな芸当をして生きていくなんてできる気がしない。
僕は、やはりそちら側へ行く資格がないように感じる。
ふと前を見ると、いつの間にか街灯の一つに、一人の男が照らされて立っていた。徐々に近づくにつれ、姿が段々見えてくる。真っ黒なシルクハット、先端の金メッキが反射する黒ステッキ。パリっとしたシ白シャツと緑のベストと茶色いズボン。その正体が閃いた瞬間、今まで考えたことは全て吹き飛び、順調だった歩調がピタリと止まった。頭の中は真っ白で、両足は縫いつけられたように動けない。
奴はいつだって唐突だ。この前もそして今も。
向こうはこちらを認めると、ずんずんと大股で歩いて来る。その堂々とした態度に威圧され、僕はますます動けない。そのまま目前で止まると、凝固する僕の顔を一瞥、口を開いた。
「どうしてこんな所にいるんだ」
だがそこにはこの前会った時みたいな、人を舐め切った態度なんて微塵もない。男、『てながざる』は何処か落ち着きがないようにさえ見える。
それを示すかのように、『てながざる』は僕が何かを言うより速く、続けざまに僕の肩を掴み、前後に揺らして声を荒げた。静寂に『てながざる』の声が響き渡る。
「『怪人』は、いるって、言っただろう。何でお前は、此処に、いるんだ」
がくがくと体を揺らされながら聞いた後半の声は、微かに震えていた。しかし迫力に圧倒されて全く反応できない。『てながざる』はそれを見ると、手を放して僕の後ろへと視線を移す。彼の位置からなら、丁度劇場がある筈だ。
涼しい温度にも関わらず、僕は背中が汗でねっとりするのをここでやっと覚える。シルクハットと街灯の影で『てながざる』の顔はよく見えない。奴の不可解な行動にもついていけない。奴の言葉の続きを待てど、ひたすらの静寂。劇場をずっと見つめている。だが、僕が堪え切れずに口を開いた時、奴はゆっくりとこっちを見た。
「まだわからないのか!」
その恫喝を聞いた瞬間、どうしてかどうしても動かなかった僕の足は反対側を向き、こけつまびろつ走り出した。
全てわかってしまった。全てわかってしまった。