POOL
劇の控え室は、伯爵や三羊さんのような重要な役割になると個室になるらしい。白い壁と木の床の、一人部屋にしてはやけに広い場所に僕と虎谷さんは案内された。目の前で鏡に向かっている伯爵はすでに衣装とメイクを済ませ、控え室にいると奇異に感じられる不思議な姿で一人座っている。伯爵は虎谷さんが喋っている間もずっと微動だにしない。
「そう……でしたか。その男は島狐だったんですね」
「ご存知でしたか」
「三羊の……それは知っていました。ただ島狐だということまでは……はあ、私もとんだ道化者ですね」
「そんなことはありません」
「ない訳ないでしょう。彼女の不義を知っていながら何もしなかったのだ。彼女が私の元へ帰ってくれると信じていることに、安寧していた」
伯爵はこちらを振り向きもしなかった。対する虎谷さんも、事務所で怒りを噴出させたことが嘘のように淡々としていた。僕はその間で、申し訳ないように立っている。
「ともかく調査は終了しました。報告も以上です」
「わかりました。報酬については後日相談しましょう。それにしてもまだ劇は残っているというのに報告しに来るだなんて貴方は……」
「情がないですかね。それとも、劇の後の方がよろしかったですか。三羊は劇終了後に出発する、筑後行きの汽車のチケットを二枚購入していますよ」
「何ですって……」
「三羊は駆け落ちするつもりかもしれないってことですよ。駆け落ちって言い方が正しいかは知りませんがね」
「貴方は本当に……いや、いい。それなら確かに今聞けてよかったかもしれない。取り乱してすまなかった」
「いいえ。こちらこそ差し出がましい真似を致しました」
それでは僕はそろそろ行きます、と虎谷さんは表情を変えずに颯爽と扉を開け、颯爽と部屋を出た。僕はついていかなかった。
伯爵はしばらくぶつぶつと独り言を唱えていたが、しばらくして僕の存在に気づくと黙っておでこを撫で上げる。
「どうした。そろそろ休憩時関は終わるから、君ももう行きなさい」
振り返ることのない伯爵の背中を、僕はじっと見る。
何かおかしい気がするのだ。僕は虎谷さんのように膨大な資料を収集することも、理論的に考えることもできないから言葉では上手く説明できないが、とにかく違和感のみがするのだ。
だからとりあえず出した言葉は、ひどく曖昧なものだった。
「伯爵は、何をなさるおつもりですか」
前方の肩が微かに揺れた。
虎谷さんのいない空間はひどく頼りない。僕はきっと核心をつけない。伯爵にこの違和感をきちんと伝えることができずに、場が散らかってしまうかもしれない。だがこの違和感のために僕は何もできないが、この違和感を放っておくこともできない。
「君は、よく気の付く人だね」
呟くような声を出し、ゆっくりと伯爵はこちらを振り返る。
「でも私は、自分でも何をしたいのかよくわからないんだ」
メイクを済ませた伯爵の顔は、涙の描かれた道化の顔だった。