POOL
「『てながざる』とは、聞いたことない名前だね…」
虎谷さんは手を顎にあて、はてさてと首を傾げる。
「まさか本名でもあるまいし………やはりそこは後を追い駆けるべきだったよ次郎くん」
「すいません」
ここ、A町の虎谷総一(トラタニソウイチ)探偵事務所兼自宅は何処よりも大量の資料が揃っている事務所である。しかし決して散らかってはいない。病的に几帳面なこの所長のお陰で、机の上には本が何冊か散乱しているけれども、事務所は至って清潔で明瞭な視界が保たれている。
そのため全ての資料を収納した、壁のように四方に聳える木棚は圧巻である。
焦げ茶色の木棚は縦向き、横向き、八つ切り、四つ切り、と様々な高さに調節された上に複雑に組み合わされている。スライド棚や回転棚の他に、中には棚同士を置き換えることで新たな棚を出現させる不思議な棚もたまにあるし、棚のあちこちから出た細長い棚は、線路みたいに何本も頭上で交差している。幾何学的とも言えるし、幻想的とも言えるその棚に、ファイルやら書類やらテープレコーダーやらがぴったりと分類され収納されているのだ。便利と言えば便利、そして言わずとも病的だ。余りに量が多いため、ものの位置を把握できているのは客用のソファーに座るこの僕と、机の背後の窓に向かって何かを考えている虎谷さんだけだ。その僕にさえ、虎谷さんが一体この事務所の何処で、調理や睡眠を取っているのかはわからない。この棚の何処かに薬缶やら布団やらが組み込まれている筈なのだが。
「うん。逃げなかったのは賢明だが、注意力散漫だったのは浅見だ。だが済んだことだ」
そしてこちらを振り返る虎谷さんは、上下黒スーツに黒いシャツ、薄黄緑のネクタイがきりりと締められた、これまた奇妙な服装をしていた。だが童顔ということもあって、その参列者のような服装とひょろりとした背丈の割に二十代後半よりずっと幼く見える。大学生の僕と同い年と言っても露見しないのではなかろうか。
「しかし『怪人』、『怪人』ね」
その童顔はわざとらしいまでに呆れかえった口調なのに、無表情だった。言うなれば表情を変えるのもうんざり、といったところだろう。
「もしかして、ご存知だったのですか?」
するとまたしても虎谷さんはわざとらしく両手を広げて、やれやれとため息を吐いた。
「ご存知だったかって、当然だ!奴のお陰で僕への依頼は確かに増えたが、奴のお陰で僕への信頼はガタ落ちでね!」
やはり世間は今、この話題で持ち切りらしい。僕が知らなかったのを伯爵があんなに驚いたのも頷ける。
「いいかい次郎君。『怪人』というのはね、実はもうずっと前からいた連続殺人犯のことで、ここ何年かはなりを潜めていたのだよ。それが君の帰省中に戻ってこられたようでね。世間じゃその噂で持ち切りだ。毎回巧みに現場へ侵入し、犯行に及び、あっちへ現れこっちへ現れて警察の追跡を撹乱して、煙のように消えている。予想もつかない華麗な手口、相手を選ばぬ非情な犯行!身分どころか性別すらも分からない。ついたあだ名が『怪人』と言う訳さ。殺しをやるのに『怪人』と言うのもどうかと思うがね。だがそうして我が身かわいさに沢山の人々がこぞって僕の元へやってきてが、残念ながら僕は“お断り”したよ。君がいない間、僕はどれ程苦労したやら」
「すいませんね」
適当な返事を聞くことなく、虎谷さんは反省していればそれでよろしい、と頷き、黒革張りの椅子にどっかりと座った。
「それで肝心の仁科伯爵はどうだったのだい?」
鞄の中からメモ帳を取り出した僕は、いつも通りに報告する。
「虎谷さんより年下のようですね。礼儀礼節はきちんとされていて、品行方正折り目正しく、大層丁寧な方でした。でも根は真面目なためか負けず嫌いなようで、依頼内容について話した時も感情が表に出てくることがしばしばありました。しかし寛容な部分はあるので、多少の失礼でも許して下さると思います。そちらはどうですか」
「仁科鶴久(ニシナカクヒサ)。二十四歳。男。数々の事業を手掛ける仁科家の一人息子で演劇俳優。先代が支援を始めた劇団の役者として活躍し、その家柄からついた仇名は『仁科伯爵』。猶、現在お見合いを全て断っているのは、同劇団の看板女優、三羊マリ(ミヨウマリ)と交際しているからと噂される」
僕がそれらの内容を手帳にメモしているのを見つめながら、虎谷さんは長い溜息を吐く。
「三羊さんとの交際はもう噂になってしまっているんですか」
「いや。恐らく知っているのは本人たちと仁科伯爵の運転手と、僕くらいだろう」
メモし終えた僕は、不備がないか再度チェックした。
虎谷総一は稀代の情報収集家である。
調査にかけては凄腕で、その迅速で的確で膨大な資料を集める情報力にかけて、右に出る者はいない。そう言われ続け、事務所を開いた時から依頼が絶えたことはない。
しかし初めて虎谷探偵事務所へやって来た依頼人の依頼はまず断わられる。この事務所は 所謂「一見さんお断り」なのだ。どうしても、という場合には僕の審査が必要となる。それは決して仕事を選んでいるからではない。
この所長の極度の人間嫌いの所為で、である。
特に初対面の人間程、恐ろしいものはないらしい。それ故「一見さん」お断り。それ故第三者の審査が必要。それでもどうしても初対面の人間に会わなければならない場合は、こんな横柄な態度ではなく、借りてきた猫のように大人しくなる。
結構な年なのに人見知りというのが、僕にはよく理解できない。そして何より、探偵として人間嫌いというのはどうかと思う。それでも上手くいっているのだから不思議だ。
「毎度のことながら、君の観察眼には恐れ入るよ。僕の情報収集力に勝るとも劣らないものなのじゃないのかね」
しばらく黙っていたら僕の思考を読んだかのように、虎谷さんがやけに僕を煽ててきた。
僕はどこかで何かを期待する自分をギュウギュウと追いやりながら、なるべく冷静に応える。
「冗談でも褒め過ぎですよ。それよりも明日三羊さんに会う約束をしてしまったので、今の内に心の準備をして下さい」
前回みたいに出発ギリギリになって会いたくないだの駄々を捏ねられると、こっちが困る。虎谷さんは少し拗ねた表情になって、机の上で腕組みをした。
「冗談じゃないのだがね。僕の甥であることを抜きにして言っているのだよ。君のそれは、学校を卒業してもここで働けるに足る力だ」
「冗談は止めて下さい」
即答。
しばし睨みあうかのような沈黙が続いて、ふっと、虎谷さんは小さく笑う。
「まあいいさ。取り敢えず、姉さんからの手紙には返事をしたまえよ……それにしてもねえ」
「……どうかしましたか」
こつこつと木棚に近寄って―そこはI町に関する書類が入っている場所だ―何かを探す虎谷さん。
「三羊婦人の言う通り、不審な男についてはたぶん大丈夫だと思うのだよ」
「どうしてです」
不審な人物が『怪人』だという勘繰りは、やはり杞憂だったと言う訳か。
しかし棚の一つからファイルを取り出す虎谷さんが事も無げに述べたのは、全く違うことだった。
「三羊婦人が不倫をしているということさ」