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 上気した頬を外から微かに流れ込む、ひんやりとした風が拭っていくが、一向に体は冷静さを取り戻せない。自分が作り出した状況なのに、まだ混乱が渦巻いて呑み込めていないでいる。
「待って、待って下さい」
 舞台袖からずっと、僕は息を切らせながら、前方の虎谷さんの背中に呼びかけ続けた。虎谷さんはもう虎谷さんではない別の人のように、決して振り向かない。
劇場の扉には、いつの間にかボーイがいなくなっていた。玄関前に居た運転手たちもいなくなっていたし、門を警備する衛士もいなくなっていた。
 劇場から続く一本道、さっきまで僕が歩いていた道にも誰もいなかった。街灯が相変わらず等間隔に灯っている。虎谷さんは街灯から街灯へと姿を移し、駆け続ける。
僕はここで体力の限界を感じ、切れかかった息を肺いっぱいに吸い込んで、とうとう叫んだ。
「虎谷さん!」
 するとここで初めて声が聞こえたかのように、虎谷さんがピタリと止まった。街灯の下で、黒いスーツがピカピカと光る。
「本当に、貴方が『怪人』なんですか……」
 むせながらも僕はおそるおそる近付く。ありきたりな言葉しか出ないのかと思ったが、知り合いが連続殺人犯だとわかって出てきた言葉に、ありきたりも何もないだろう。
 そうして2メートルくらいの距離まで近付くと、不意に何を思ったか虎谷さんが白いスカーフを取り、地面に捨てた。ひらり、と土の上に高級なスカーフが舞い落ちていく。だが地面に落ちた瞬間、虎谷さんは勢いよくこちらを振り返り、舞台上にいるかのような大音声を発した。
「プールは病気が感染しやすい」
 僕が呆気に取られて立ち尽くしているのを見ると、虎谷さんは声を出して笑った。闇の中に、笑い声だけがこだました。最早それはいつもの柔和な笑いなどではなく、得体の知れない、声を上げる毎に見る者を不安にする笑いだった。
「だが病気なのはどちらだろう正気なのはどちらだろう。僕にはね、それがわからなくなってしまったよ次郎君。ああ、確かに僕は『怪人』だよ。そして僕は虎谷総一だ。君の考えているように、『怪人』ではない訳ではないし、虎谷総一を騙る別人物でもない」
 スカーフの無くなった虎谷さんは、今度こそ本当に黒づくめ。
 噫!虎谷さんは欺いていたのだ。
 こんな裏切りがあるだろうか。虎谷さんは優秀な探偵で、稀代の情報収集家の筈だ。だがそれだけじゃなかったのだ、彼は同時に、世に名を轟かす犯罪者だったのだ。
「しかし意外と早く露見してしまったものだねえ。監視員に何か吹き込まれたのかい」
 嘲笑する口も僕を見る目も、何もかも恐怖、しか浮き立たせない。
 僕が何かを言おうと口をパクパクさせた時、聞き慣れた声が耳に届いた。
「貴方が、殺したのですか」
 虎谷さんがおや、と目を見開き、そして再び嘲笑を湛えた。
 振り返れば、いつの間にか伯爵が立っている。舞台衣装から着替えてはいるが、ところどころ血痕を残し、満身創痍の体。だが目は虚ろながらも、虎谷さんを正確に捉えていた。
「貴方が短刀をすり替えたのでしょう。だから、マリは、死んだんだ」
「言いがかりは止して下さい。すり替わっていたことを知っていたのは、貴方でしょう」
 わざとらしいまでに恭しい態度で返す言葉に、伯爵は何も言えない。
「それでも劇を始めたのは、貴方にも『見えた』からでしょう『聞こえた』からでしょう」
「何が、ですか」
「真実ですよ答えですよ。或いは何だっていい。何かが『見えた』なら『聞こえた』なら。いいやその筈だ」
 何の話をしているのかはわからない。だが、僕は漠然とした不安を感じていた。それは伯爵の控え室で感じた違和感と、同じもの。虎谷さんが視線をまた僕へと戻した。
「次郎君。君はプールの底に沈みたくないと言ったね。賢明だよ。底を『見る』前に沈むのはよくない」
でもね、とその童顔に苦々しげな表情が作られる。
「君は底に沈むってことがどんなことかも知らないくせに、泳げるようになりたいとひたすら溺れていたのだね。浅見だよ。君は僕に憧れを抱いていたようだが、自立して生きている人間皆が上手に泳げていると思ったらそれは過剰と言うものだよ。バカバカしい」
 黙っている僕らを後目に、虎谷さんは両手を広げ、指揮を取るかの動きと共に節を付けて続ける。
「まあいいさ。泳げるようになれば君もわかる。さあさよならだ。“楽しい場所にずっと居たいけど。アデュ、アデュ。皆さんさようなら”」
そして最後に伯爵を見て作ったのは、愉悦に浸った笑顔。
「伯爵。プールの底は、居心地がいいのですよ」
 その言葉を耳が捉えた瞬間、虎谷さんは跡形もなく、塵一つなく消えていた。何の予兆もない突発的な出来事に、僕と伯爵はひたすら固まるしかなかった。
 急に背中や頬や手から汗がぶわっと噴き出した。寒気が全身を襲い、伯爵は土の上にへたりこんだ。
 街灯だけがチリチリと小さな音を立てて、男のいた場所を照らしていた。

作品名:POOL 作家名:つえり