POOL
夜闇と街灯の光の間、地面に座り込んだ男がいた。
纐纈次郎はとっくの昔にいなくなったが、この男は虎谷総一が消えた後から一歩も動かず立ち続けていた。
胸中で繰り返されるのはたった一つの言葉。その一欠けらを、男は不意に零す。
「プールの底」
無意識の行動にも関わらず、口にしたことで確信を得たのか、男にはうっすらと笑みが広がっていく。だがそれとは別に、目から一筋の涙も零れていた。
「待っていたよ……」
泣き笑いの表情は、それまでの彼からは想像できない程醜く、歪んでいる。
次郎君。プールの底には、「怪人」がいたよ。
夜闇の中、板塀にもたれる「てながざる」だけが、全てを見ていた。
翌朝纐纈次郎がA町の虎谷総一探偵事務所を訪れると、事務所の壁となっていた、広大な棚の中身全てがぶちまけられて荒れに荒れており、床一面が物の海のようになっていた。足場を作りながら次郎は書斎机まで移動したが、これといった物は何も見当たらない。その時ふと自身の真横に、中身が空になっていない、本の並べられた段を見つけた。何とか近寄ってその一列を手で押すと、がこん、と本が後ろへ下がり、同時に棚全体が鳴動し出す。驚く間もなく低い地響きを上げて、棚の内部で、板が自動的にパズルのピースをはめるかのように上下左右に動く。頭上で交差させられた棚は、半分に折れて回転している。周囲の棚全てが奥へ埋もれ前へ進み、まるでマスゲームのようだ。
だが2、3分もすると、棚の動きは止まった。同時に次朗の目は自身の目の前に注がれる。
棚がその身を退けて作り出したのは、人一人が優に入れる入口と下へと続くコンクリイトの階段だった。先は暗闇で何も見えない。
次郎は何となく暗闇の先がプールの底へ繋がっているような気がして、顔をしかめた。それがこの事務所へ入って初めて行った顔の動きである。
そうやってしばらく暗闇を見つめた後、次郎は静かに部屋を出た。
(おわり)