POOL
「さようなら」
初めての台詞と共に、道化が娼婦を刺した。
娼婦は驚いた顔で短く何事かを叫んだが、すぐに唇を噛みしめ、顔を歪ませる。血がそこら中を溢れて溜まり出してまるで本物のようだ。観客の中には生々しいその表現に眉をひそめる者もいたが、ほとんどが彼らの演技に完全に魅入っている。迫真の演技を行う女優は、ぐったりとして動かない。女優を両手で支える血塗れの俳優は小さく震えてはいるが、こちらも全く動かない。舞台は結晶化したかのように静止している。そして十分過ぎる間を持って、三羊マリ(ミヨウマリ)はここで絶命した。演技ではなく本当に死んだ。なぜなら三羊に突き刺さった短剣は、偽物ではなく本物だったから。三羊は死んだ。両腕でそれを感じとって我に返ったのか、仁科鶴久は舞台袖で凍りついているスタッフに、目でとにかく幕を下ろすよう指示した。
その反対側の舞台袖で、一連の流れを見つめる姿があった。幕がするすると落ちて行くのを確認し、その人は左手の短刀を握り直す。その人は幕が落ち切り、スタッフが仁科の元へ駆けつけて行くのを見て微笑みを一つ作った。だが全員が仁科のことしか見ておらず、その様子に気づくものはいない。終わりだと勘違いした幕の向こうからの拍手が、くぐもって聞こえる。そうして自身も仁科の元へ行こうと、ゆっくりと足を踏み出したその時、強い力でその人の肩を掴む者があった。
「待って下さい」
舞台全体に響く声に、スタッフ全員が虎谷総一と、虎谷総一の肩を掴む纐纈次郎に注目した。彼らは虎谷総一の手に持つ短刀を見て、その後三羊を見つめる仁科の短刀へ目線を戻す。二つの短刀は全く同じもので、全員はようやく、仁科鶴久の持つ短刀が本物だったことに気づいた。
「……もっとも、貴方ならその偽物でも十分伯爵を殺せるでしょうね。そのつもりだったんでしょう」
虎谷総一は答えない。
纐纈次郎は気にすることなく、淡々とした調子で続けた。
「貴方が、『怪人』ですね」
当の本人は驚きざわめくスタッフを前にして、自身の肩に込められた手がわずかに震える纐纈次郎を背にして、うっすらと笑った。
直後、持っていた短剣で背後の纐纈に切りかかり、それを避けようと纐纈次郎の手が離れると、身を翻し、疾風のごとく舞台袖から駆け出していた。
纐纈次郎がその後ろを追うが、スタッフら全員はまだ動けない。その内三羊さん、と誰か叫ぶ者が現れ、氷解するかのように舞台は騒然となった。
そして騒ぎの中、三羊マリの体が他のスタッフによって運ばれるのを確認すると、仁科鶴久もよろよろと立ちあがり、舞台袖へと消えた。
追伸。
総一が先日帰省した後、母がずっと総一のことを心配していました。総一の様子がどこかおかしいと言うのです。言われてみれば私から見ても、帰省中の総一には少々不可解なところが幾つかありました。何か病気でもしているのか、思い当たることがあったらすぐ連絡を下さい。
母より。