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骨まで愛して

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 ゴールデンウィークの奇跡。ファンタジー。僕はガッツポーズを決めながら、女に携帯の番号を伝えた。今度は僕が聞く番だとボールペンを構えた直後に着信音がして、僕の電話が振動した。液晶を見ると、知らない番号が表示されている。
「それ私の番号だから」
 嬉し過ぎて泣きそうになった。
「オッケーっ。じゃあ家帰ったら電話するよ」
「家帰るの?」
「え、打ち合わせ終わったらだけど多分そんなに時間かかんないから」
「ふーん。まあ、いいけど。男の子だけど大丈夫?」
 時計を見ると、五分前だ。ズボンと下着を纏めて引っ張り上げ、ベルトを閉める。デッキからビデオテープを取り出して、靴の踵を入れた。じゃあ、と言いかけて、鼻糞を飛ばした。
「え? 今何て言ったの? 最後の方」
「私男の子だけど大丈夫? って言ったの」
「はい?」
 阿呆らし過ぎて、怒る気にもならなかった。
 テレフォンセックスに付き合わなくて、本当に良かったと思った。もしそうしていたら、しかも延長にまでなっていたら、死ぬ程虚しかっただろう。
「何だよ……、話が上手過ぎると思ったんだよなあ。あーあ……。じゃあ切るよ」
 受話器を叩き付ける気力もなかった。完璧に騙された時、人間は落胆のあまり、怒りを通り越して笑ってしまう事を知った。僕は自分でも信じられない事に、その時、笑っていた。
「待って、番号登録するから名前教えてよ」
「はい? 登録しなくていいよ」
「いいじゃん。教えてよ」
「道男。遠藤道男」
「ヨシユキ」
「はい?」
「私、ヨシユキだから。登録しといてよ」
「するかよっ」
「えー、いいじゃん。心狭いなあ」
「うるさいよ。もう出ないと延長になっちゃうんだよ。じゃあな、ヨシユキ」
「分かった。じゃあ、ま」
 受話器を置いて、部屋を出た。尻切れになった最後の言葉は、たぶん〈またね〉だ。
 広げたままになった純白のティッシュに、何とも言えない哀愁が漂っていた。

 何で気付かなかったのだろう。
 エレベーターの中で考えた。確かに声は掠れていて低かったが、まさか男だとは思わなかった。テレクラにオカマが電話して来る可能性なんて、一体誰が考えるだろうか。取り次いだ店員さえ、気が付かなかったのだ。
「ま、いっか」
 扉が開き、歌舞伎町のネオンが眼前に広がった。オカマのコールを取らなかったとしても、どうせいいコールなんかなかったに決まっている。援交、年増、オカマ。どれも似たようなものだ。そう思うと、特別損をした気にはならなかった。
 変な奴だった。
 駅に向かう人の波。僕は何故かスッとしている自分に気が付いた。この妙な経験を誰かに話したい。そう思ってポケットから携帯電話を取り出したが、話す相手は誰もいなかった。思い出し笑いが、こみ上げて来た。着信履歴の最初の番号。ヨシユキの番号を登録して、僕は歩き出した。

 家に帰った僕は、帰りがけにコンビニで買ったどん兵衛にお湯を入れ、五分間でオナニーをした。スポーツニュース番組を観ながら麺を啜った後、伸び放題になっていた足の爪を切った。
 気が付くといつの間にか十二時を過ぎていた。何となく翌朝からの仕事について考え始め、また少し憂鬱になった。
 美大に通っていた頃は、もっと違う将来を想像していた。迷惑なバブル景気が勝手に始まって勝手に終わり、取り残された僕たちは就職氷河期世代と呼ばれた。氷河期を逞しく生きて行く生命力を持たなかった僕は、ぎりぎりで内定を貰った三流会社で、凍えそうになりながら小さく生きていた。
 目覚まし時計をセットして、煎餅布団に潜り込んだ。十八歳の時、山形の田舎から上京して以来ずっと見ている染みだらけの天井を見詰め、また溜息を吐いた。
 テレビの消えた部屋は静かで、隣の部屋の話し声が薄く聞こえた。隣に住んでいた大学生は長髪の美男子で、いつも誰か女の声がした。僕はセックスが始まらない内に、眠りたかった。一旦始まると、その声は三十分ワンセットで三回も四回も続いた。
 頭から布団を被ったその時、滅多に鳴らない携帯電話の着信音が、僕を驚かせた。布団から這い出し、床に転がった携帯を開いた。
〈よしゆき〉
 液晶画面に奴の名前が光っていた。
 三コール分迷って、通話ボタンを押した。僕は小さく息を吸い、態とぶっきらぼうに言った。
「なんだよ……」
「こんばんわー。終わった? 仕事」
 シャロン・ストーンの吹き替え声優のような、甘ったるくて大袈裟な話し方。掠れ気味のオカマ声が日常を壊すように、耳に響いた。
「うん……、まあ」
「ホント? じゃあ、ちょっとだけ話さない?」
「まあ……、いいけど……」
「何か嫌々って感じなんだけど、もしかして迷惑?」
「だってさぁ、お前男なんだもん。まあ暇だからいいけどさ」
「何してたの? オナニー?」
「だからしてないって。うるさいよ。家でラーメン食ってた」
 布団から這い出た。電気を点けて、冷蔵庫から発泡酒の缶を取り出し、
三分の一を一気に飲んだ。
「そっか。邪魔しちゃったね」
「いいよ。今食い終わったとこだから」
「じゃあこれからオナニー? 手伝ってあげようか?」
「だからいいって。しないし」
 一日にこれ程沢山の嘘を吐いたのは、初めてだと思った。使ったばかりのティッシュペーパーが、普段より多めに出た精子を包んで、ゴミ箱の中で丸まっていた。
「ふーん。今どんな感じ?」
「どんな感じってどんな質問だよ」
「どんなかっこしてどんな状態?」
 吹き出しそうになった。勘の悪い僕でも、ヨシユキの狙いが分かった。
「って言うか、そんなに俺とテレフォンセックスしたいわけ? お前半分男だから分かり易過ぎるよ」
「えー、いいじゃんしようよ」
「だからしないって」
「絶対?」
「無理だよ……、そんな趣味ないもん」
「ふーん。ケチ」
「ケチって言われても無理なもんは無理だよ。またテレクラに電話して他の奴とすればいいじゃん」
「だってミチオっていい声してるんだもん。その声聞いちゃったら他の人となんて出来ないよ」
「だからそんな事言われた事ないって」
「じゃあしようよ」
「じゃあの意味がまるで分かんないよ。だってお前、男じゃん」
「そうだけど想像すればいいじゃん」
「何を」
「女を、に決まってるでしょ」
 高校時代。夏。彼女は陸上部で、走り高跳びの選手だった。帰宅部の冴えない僕は、教室の窓から放課後の校庭を見下ろし、ショートパンツでウレタンマットに沈んでいく彼女をずっと見ていた。形のいい細い脚。たまに捲れるシャツから覘く縦長の臍。もう一度人生をやり直せるなら、彼女に……、彼女の……、彼女と……。僕は目を閉じ、イメージした。
「無理だよ」想像する相手を間違えた。清純な彼女と三十手前のオカマの声ではイメージが合わない。僕は少し迷って、聞いた。「ヨシユキって見た目は女なの?」
「何それ。女装してたら良かったわけ? って言うか、あなたゲイだったらみんな女装してると思ってんでしょ。偏見だよそれ。モデルやってるって言ってんだから女装なんてしてる訳ないじゃん。代理店にいる癖に馬鹿じゃないの? あなた女装のモデルなんて今まで見た事ある?」
 受話器を十センチ耳から離した。奴は急に早口になり、ヒステリックに僕を責めた。
作品名:骨まで愛して 作家名:新宿鮭