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魔女と猫のフラスコ

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「四年前は、この瓶に魔力を吸われた後に跡形なく消えてたけど」
「それは元の世界に帰ったのではなかろう。存在を維持する力までも吸い取られた結果、消滅を迎えたのだ。“死”ではない“消滅”を」
 すべての力を吸い取られておったならば、吾輩も消滅しておったのであろう。やはり、有り内な猫に戻る事など到底不可能であったのだ。
 その様な願いなど叶いはすまいと分かっておった筈なのだ。
 吾輩は自身の愚かさを嘲笑うために立ち上がり、未だ顔を上げようとしないナナシーに、顔を上げよ、と告げた。
「あの……」
 ナナシーは声を掛けてきたのであるが、吾輩は背を向けて相手にしなかった。暗く沈んだその声に続く言葉が存在しない事は分かっておったのである。
 少々狭いが贅沢を云っても際限がないので、生涯この狭い陣の内にて風雨と共に生きるのもまた良しと決め、吾輩は「もうよい。去れ、少女子《おとめご》よ」と冷然と告げたのである。


 *  *  *

 三日の時が流れ、飢えと渇きに因る辛苦にも慣れてきた。
 吾輩の肉体は単なる魂の容れ物であるので、その維持には所謂ところの生物が要する栄養補給等等の行為は不要となる。飢えや渇きは肉体が感じる肉体への感覚であって、魂に空腹や咽喉の渇きが訪れる事はなく、重度の飢餓に陥る事で集中を欠いたり落ち着きが無くなりはしようとも、それは吾輩の存在を危ぶむ要因には成り得ないのである。詰まるところ、暑さ寒さと同じだ。

 吾輩は屹立する七本の石柱による方陣の中で、昇る朝日を迎え、雲の流れ往くを眺め、沈み往く陽を見送り、瞬く星星の下で眠った。
 永く流浪の身であったがため孤独には慣れておった。孤独には慣れておったのだが、ここから一歩も動けぬ境遇となればそれはまた違った話となる。吾輩の様に永く生きておれば斯様に面妖な事象に出遭いもしようと云うものである。酷いものであれば、普段は“けいじ”なる篭に閉じ込められ、篭より出されたと思えば始終主の腕に抱かれ、主が抱き飽きるとまた篭に閉じ込められると云う生活も経験しておるのである。それに比べれば跳ぶも跳ねるも自由であり、ごろごろと寝転がるもまた自由。空腹などは我慢すれば良い。それでも耐え切れぬとなれば石柱の傍に生えておる草花を食らえば良い。咽喉の渇きは雨を待てば良い。
 はて、待てよ。この界隈には冬が訪れるのであろうか。そうであればそれは由由しき事である。魔性を帯びておるとはいえ吾輩は猫属であるが故、寒さには滅法弱いのである。だからと云って暑さに強いわけでもない。

 置かれている状況を鑑みれば自身を嘲《あざわら》うしかない。
 魔性を帯びておる事で自由気ままに時節を跨いで来た吾が身は、今その魔性に因ってあらゆる自由を奪われる身と相成った。これは魔性の恩恵を十二分に愉しんでおきながらも有り内な猫に戻らんと欲した吾輩への罰であろう。であれば吾輩は甘んじて受けねばならぬ。何故《なにゆえ》吾が魂が魔性を帯びたのかさえも覚えておらねども、吾輩は受け入れなければならぬのだ。
 そう嘆く事では無い。永き光陰を刻めばいつの日にか妙案が浮かぶやも知れぬし、あの少女子《おとめご》がこの陣を敷いたと云う師匠を見つけてくるやも知れぬ。
 む? そうであったのか。
 吾輩はナナシーを――


 四日目の陽が昇った。
 吾輩は昇る太陽には目もくれず、昨夜半から微塵も動く事無く一つの方角を見据えておった。
 小高い丘の頂上にある陣内からは、周囲一帯が朝陽に因って照らされてゆく様を俯瞰《ふかん》出来た。風に乗って流れ来る匂いと夜の帳を照らす篝火《かがりび》は、人里の位置を正確に報せてくれた。だが吾輩が見据えておったのは全く別の方角であった。
 吾輩は「去れ」などと云ってしまった事を後悔しておった。
 ナナシーの持つ安らぎに溺れてしまわぬ様にと遠ざけてしまったのである。真に愚行であったのは、ナナシーに心労を掛けさせぬためなどと格好をつけておった事である。愛の証である名を頂戴しておきながら、吾輩はそれを蔑《ないがし》ろにしてしまったのだ。
 この陣に閉じ込められる前は、誰に会うも誰に会わぬも吾が心向きの望むままに出来た。一人でおる事も、仮初めの主を戴く事も、どちらも思うままに選択する事が出来た。
 今の吾輩にはその様な事は許されぬ。どれだけ邂逅《かいこう》を願おうとも、ただ待つ事しか許されぬのだ。
 吾輩は、ナナシーが歩み寄りそして去って行った方角をじっと見据えたままに、朝を迎えたのだ。

 五日目の朝、吾輩は喜びの内におった。
 丘の麓に揺れ動く三角帽を見つけたのだ。
 近寄っては離れ、離れては近寄り、と往復運動を繰り返しておったので、傍まで寄るかどうかを迷っておるのであろうと推測した。
 何しろ麓からこの陣までは一時間ほどの道程であり、その間は視界を遮る遮蔽物は一切無いのであるから、気付かれずに近寄るのは不可能である。
「にゃああああああ!」
 吾輩は力の限り鳴いた。
 背中を見せて離れようとするナナシーに向けて力の限り鳴いた。
 魔性の力が失われておらぬのであれば、この鳴き声は遍《あまね》く周囲に響き渡る。吾輩はそうする事で、既に気が付いておるぞ、と報せたのである。
 半刻の後《のち》、見ているこちらが面映《おもはゆ》く感じるほどの含羞《はにか》みを湛えたナナシーが吾輩の眼前に座った。
「お腹、空いてると思って」
 互いに言葉を探す沈黙の時間が訪れるのかと思っていたのであるが、ナナシーはそれを簡単に裏切って見せた。
「む、何であろうか?」
 たすき掛けにした鞄から取り出したるは、焼いた魚の切り身が一枚、干した小魚が五匹、すり身を丸めて湯煎した団子が幾つか。当然この世界の魚を食した経験などを持ち合わせておらぬ吾輩は、空腹と云う調味料も手伝って、未知なる珍味に飛び掛らんばかりであった。
 ――だが。
 例え極限の飢餓に苛まれておろうとも、礼節だけは逸してはならぬのだ。
「感謝するのである」
 吾輩は一言そう告げた。
「ううん。約束したじゃないか、責任持って世話をするって」
「だが吾輩は去れと」
「去れって言われたけど、もう来るな、とは言われてないからね」
「ははっ 確かにその通りであるな」
「ボクだって魔女なんだ。魔女は約束を守る」
「うむ。では遠慮なく馳走になる」
 ナナシーは吾輩の食事をにこにこと笑みを浮かべながら眺めておった。途中で、何が面白いのか、と問おうとしたのだが、何やら無粋な振る舞いであるような気がしたのでやめておいた。
 吾輩が食事を終えると、ナナシーは件の硝壜《フラスコ》を取り出して正面に置いた。硝壜は丸底であるので、先に台座が敷かれている。
 先に見た硝壜とは内容量が違っていたのであるが、よくよく眺めてみれば懐かしいやらムズ痒いやらで何とも言葉には表せぬ様相であるので、吾輩の魔性の一部を吸い取った硝壜であろうと確信した次第である。
「見たところ、中身が減っておるようであるが?」
「うん。使ってきた」
 ナナシーはきらきらとした笑みを返してきたのである。
作品名:魔女と猫のフラスコ 作家名:村崎右近