魔女と猫のフラスコ
吾輩は決まった主を持つ事をせずに流浪を続ける旅猫であるからして、時折は仮初めの主を戴くなどして安穏とした生活をする事はあれど、所詮は仮初めの主である。真なる主を戴いた経験がない以上、真なる名を持たぬと云う事になるのである。一つの名で長く呼ばれる事はあっても、その期間はせいぜい二十年余であるから、吾輩の永き生涯においてすればほんの一時期の事となるのである。
「“名無し”だったのかー。ボク早とちりしちゃったんだね」
「うむ。申し訳ない事をした」
「でも、肝心の名前が無いんじゃどうしようもない」
「一つ妙案がある。ただし、約束をして欲しい」
「ん? ボクにできることなら」
「吾輩から魔性の力を抜き取りし後《のち》、正真の有り内な猫となった吾輩を元の世界に送り返して欲しいのである」
「んー。正直、送り返す事が可能なのかどうかも分からないんだ。少なくとも今のボクには実現できない。その方法を探してみるってのじゃダメ?」
「その方法を見つけるまでは、汝が正真の有り内な猫となった吾輩の世話をしてくれると云うのであれば、それでも構わぬ」
「ん、分かった。約束するよ。えっと、こういうときって血の契約を結ぶんだっけ?」
「その様な無粋な真似をせずとも、汝はこの約束を守ってくれるであろう?」
「まぁそうだけど」
「ならばその言葉だけで良い」
ナナシーは不思議そうな顔で吾輩を見ておったのだが、吾輩にはその視線が妙に心地良くもあった。
「汝が吾輩に名を付ければ良い。吾輩がそれを真名として受け入れるだけで事は済もう」
「どんな名前でもいいの?」
「うむ」
どのような名前であろうとも構いはしない。有り内な猫に成りて元の世界に戻れば、また新たな名を与えられもしよう。吾輩はその名を受け入れ、その名と共に注がれる愛情に埋もれて生涯を送るのだ。
名は愛の証である。魔性から逃れた後《のち》の吾輩に、愛を拒む理由などあろう筈がない。
「うーん。じゃあ、キミの名前は――だ」
* * *
さわさわとした心地良い風を耳元に受け、吾輩はかつて無いほどの深き眠りから目覚めたのである。
遂に念願叶って有り内な猫へと成った吾輩は、髭をピンと伸ばし正面から吹く風を受けて、うん、と大なる欠伸をした。
どうやら場所は先ほどと変わっておらず、ただ幾許かの時が流れた様であった。周囲を見渡せば、猫の足で数十歩ほど離れた所に寝息を立てるナナシーがおり、その胸には件の硝壜《フラスコ》がしっかと抱かれておったのである。
吾輩は目覚めを報せるために、にゃあ、と一つ鳴いてみることにしたのであるが、いざ鳴いてみると何とも美しくない響きであり、これはしまった最後に容姿端麗にして眉目秀麗であり鹿鳴《ろくめい》の咽喉を持つ身体に作り変えておくべきであったななどと取り返しの付かぬ事への後悔を覚えるもまた新鮮な体験であった。
それもまた良しと思い直した後、ここは一つ有り内な飼われ猫としては主に寄り添って寝てやるのが良かろうと考えて、ナナシーの寝息に向かい歩を進めることにしたのであるが、数歩進んだところで目に見えぬ壁に阻まれ、それ以上は一歩足りとも進めぬ事態と相成ったのである。
どうやら屹立した七本の石柱による結界陣は、未だに吾輩を外へとは出してくれぬ様であった。
「にゃああああああ!」
吾輩は力の限り鳴いた。
これほどまでに咽喉を酷使した例《ためし》はなかったのであるが、あらん限りの声を張り上げるというのは、なるほどなかなかに気持ちの良いものであった。
吾輩の声が届いたのか、ナナシーはむくりと上体を起こし寝ぼけた眼《まなこ》をこちらへと向けてそのまま大口を開けて欠伸を一つ。そうして両の手で硝壜を抱えて立ち上がり一歩二歩と吾輩に歩み寄った。
「ゴメンゴメン、寝ちゃった」
そう云いながら吾輩に向けたナナシーの笑みは純真無垢以外の言葉では形容出来ぬ様相であった。吾輩の混乱はナナシーが三歩近づく内に静まったのであるが、恐らくこれはナナシーが持つ特殊な力なのであろう。未熟な者は突如訪れる安らぎに対して恐怖を覚えるため、その恐怖から自身の心を守らんがためにナナシーを虐げるのであろう。余談ではあるが、更に未熟な者は安らぎに溺れるのみに終始する。
「状況説明を願いたいのである」
吾輩はナナシーに余計な不安を与えてしまわぬ様に出来得る限り冷然とそう述べた。
「うん」
神妙な顔つきで頷いたナナシーは、水溶液で満たされた硝壜を差し出した。
その満ち満ちた内溶液が吾輩より吸い出した魔性の力がその姿を変えた物であろうと察するのは実に容易き事であり、詰まるところそれは魔性の抽出が成功した事を示す揺るぎない証左なのである。
「見ての通り、吸い出したみたいなんですケド」
吾輩が説明を求めている事象とは、抽出が成功しておるのに屹立した七本の石柱による結界陣を歩み出る事が罷り成らぬのは何故かと云うただその一点であるため、ナナシーの口より真相が告げられるを黙して待つことにした。
「その……全部は吸い出せなかったってゆーか、満盃になったってゆーか」
意思の疎通が何の支障もなく行われている事の違和感から目を逸らしていた吾輩は、ナナシーのその一言によって状況の粗方を把握するに至ったのである。
「詰まるところ、吾輩は有り内な猫になってはおらなんだのであるな?」
「うん」
こうもあっさりと肯定されては、怒る気も霧散すると云うものである。
「吾輩はどうなるのであろうか?」
「どうって?」
ナナシーは吾輩の問いに問いで返してきた。
「その硝壜で力を吸うのが召喚の目的であったのではないか? ほれ、硝壜は充分に満ち満ちておるではないか。であれば、吾輩を陣内に縛り置く必要はあるまい? よもや、このまま捨て置くつもりではあるまいな?」
ナナシーは引き攣った表情を何とか元に戻した後《のち》に、それでもやや困り顔の上目遣いで口を開いた。
「ワカリマセン」
現状を何とも考えておらぬのであれば、吾輩が気を喪しておった合間に姿を眩ましておった筈であるから、紛《まご》う事無き事実をそのまま述べただけであろう。吾輩の問いに何とか答えんとするその健気さに胸を打たれたのではあるが、それとこれとは別の話である。しかし吾輩はナナシーに返す言葉を見出せなんだのである。
「この陣は、瓶と合わせてお師匠様がお造りになられたんです……ボクなんかじゃ制御できないんです……」
「その様な事を口にしておったな。たしか、その者の消息は掴めぬとか」
「その通りデス」
「なんとぉぉ……」
吾輩は四肢から力が抜けて行くのを感じながらもそれに抗する事が出来ず、情けなくもへなへなと倒れ地べたに身体を横たえたのである。
「それでは吾輩は、この狭き陣内において訪れるかどうかさえ定かでない天寿を全うする日をただじっと待たねばならんのか」
「飼い主として、責任持ってお世話させて頂きます」
ナナシーは地面に両の手を付き土下座までして見せたのだが、吾輩からは三角帽の広いつばに隠れて何も見えなんだのである。そして、それでも落ちぬ三角帽にほとほと感心したのである。
「吾輩の前に召喚された者はどうなったのであろうか?」