魔女と猫のフラスコ
* * *
吾輩には掛けるべき言葉を見つける事が出来なんだのである。
「しくしくしくしく……」
ナナシーは背中を丸めて座り込みさめざめと泣いておった。そのすぐ傍には件の硝壜《フラスコ》が無造作に転がっておるのであるが、先ほど高高と掲げられておった際には空であった筈のそれには無色透明な水溶液が僅かばかり揺れており、それだけでなくしっかりと栓までもがなされておった。
「どーせ、どーせボクなんてこんなもん……」
ナナシーの口から漏れ出た言葉の断片から察するに、件の硝壜《フラスコ》は対象の名を呼ぶ事でその力を吸い取ってしまう術具であると分かった。
「たったこれだけ……しくしく」
更に耳を傾けておると、ナナシーが嘆いておるのは件の硝壜の中で揺れる水溶液の量に関してであるらしかった。詰まるところ、力が大きければそれに比例して量も多くなるのであろう。
「栓を外しても元通りにはならぬのであろうか?」
「中にある魔力よりも強い魔力を持っていないと栓は外せないんだ。ボクは全部吸われてしまったから、開けられない」
吸われた者がすぐに取り戻せぬ様にするための仕掛けである。
「では、誰か他の者に頼んではどうか?」
「笑われちゃうよ。失敗した事も、量が少ない事も」
「そのような事、瑣末事ではないか」
「どうしたらいいんだ!」
ナナシーは吾輩の献策に耳を傾けなんだので、次なる方策を告げる。
「吾輩ならば開栓も可能だと思うのであるが」
「ダメだよ。だってキミ、その陣から出られないでしょ」
「試してはおらぬから何とも云えぬが、この陣は如何様な物であるか?」
「四年に一度、どこからか誰も見た事がない魔物を召喚してくれちゃう迷惑な召喚陣なんだ。大昔に地面を掘り起こして陣を壊したことがあったらしいんだけど、召喚の当日には綺麗に元通りになったんだって」
どうやらナナシーは物事の薀蓄《うんちく》語りを好んでおるらしく、先ほどまでのさめざめとした雰囲気は話しておるうちに何処かへと消え失せておった。
「それはまた難儀であるな」
「それで、呼び出されちゃうのは仕方がないから、魔力を吸い取って利用しちゃえって考えて、それを実行したのがボクのお師匠様ってわけ」
「なるほど。詰まるところ、ナナシーは吾輩の力を吸い取るためにここにやってきたのであるな?」
「そういうこと。失敗しちゃったけどね……しくしく」
再びさめざめと泣くナナシーを余所に、吾輩は内に篭って考えを巡らせておった。そうして、ここで吾輩の魔性を吸い出してもらえるのならば、吾輩は正真の有り内な猫に戻れるのではないかという考えに至ったのである。
そうとなれば、何としてもこの忌まわしき吾が魔性を吸い取ってもらわねばと心に決め、ナナシーに向き直った。
「もしこの魔性を吸い出してもらえるのであらば、それは吾輩としても望むところであるが故、一時の嘲笑になど捕らわれる事無く再び術式を執り行って欲しいと切に願うものである」
「でも、これ以上虐められるのは……」
「そこを曲げて」
「でも……」
繰り返された同様にやりとりに、吾輩の堪忍袋は緒だけでは足らずに袋その物までもが千千《ちぢ》に千切れてしまったのである。
「えぇい! 女は度胸というではないか!
「そ、そうだっけ?」
「頑として首を縦に振らぬというのであらば、一日に万里を駆ける吾輩の足を以って汝の恥業を地の果てまで知らしめてやろうぞ!」
「ええぇぇぇ!?」
吾輩は魔性に目覚めてより一度足りとも全力を出した例《ためし》がなく、この日この時も知らず知らずのうちに力を抑えておったのではあるが、それでもかつてないほどの瘴気を発した事は紛《まご》う事無き事実であった。
然れども、屹立する七本の石柱による方陣は微塵の揺るぎを見せる事も無く、吾輩は改めて感嘆を漏らす事となった。
「うわ…しゅごひ……」
目を丸くしたナナシーが吾輩を直視しておった。
「あんなに強力な瘴気は、今まで見た事ないよ」
「そうであるか。されど、吾輩には無用の物。疎ましくさえもある。これが何かの役に立つのであれば、是が非にでもその様にして頂きたい」
ナナシーは暗い表情を吾輩に向けた。
「ボクを笑われるのは構わないんだ。けど、お師匠様が笑われるのは我慢できないんだ」
人情に疎い吾輩であっても、ナナシーが言わんとする事は理解しておった。理解しておったが故、何とか活路を見出せぬものかと思案に暮れる事にしたのである。
「先ずはその栓を何とか致さねばならぬ」
「何とかって?」
「吾らのみでその栓を開けるのだ」
「どうやって?」
「それを考えるのである」
そうは云ったものの、ナナシーには開けらぬ、吾輩はこの方陣から出られぬ、では手の施し様がない。
「む?」
ふと、吾輩に閃きが起こった。
「吾輩はこの陣から出る事は叶わぬ身の上なれど、汝なれば陣内に立ち入る事も罷り通るのではないか?」
「あ、そうだね。キミ頭いいね!」
ナナシーは無造作に硝壜《フラスコ》を拾い、何ら警戒を抱かぬまま吾輩の眼前にまで歩み寄ってきたのだが、吾輩はそのあまりにも無防備な挙動に驚きを隠せなかったのである。
「なんとっ!」
「ん? どうしたの?」
「吾輩を恐れておらんのか?」
「怖かったよー さっきの瘴気なんて、もう失禁寸前」
「陣内に立ち入れば吾輩に危害を加えられるやもと思わなんだのか?」
「え? あっ! で、でも、キミにはそんなつもりはないんだよね?」
「なんとも……吾輩にはその様な野蛮な考えは毛頭ないが、魔性には舌先八寸で言い包める者が多い。多少は警戒を残しておく事を薦めるのである」
「以後、気を付けます……」
ナナシーより硝壜を受け取った吾輩は、前肢を絡めて固定した上で栓を咥え一息に開栓した。雀泪《じゃくるい》ほどの内溶液が瞬時に煙と化し宙に霧散する。
首尾良く決まったのかどうかを確認するためにナナシーの顔を窺ったところ、それはそれは嬉しそうな満面の笑みを浮かべておった。どうやら口は悪いが器量はそこそこであり、馬子にも衣装と云うのはいささか雅に欠ける物言いとなる頃合いの少女子《おとめご》であるようだ。
本人の口振りからは、ナナシーを虐げておる者供がおるようであるが、それは幼き愛情表現の一端であろう。あるいは、ナナシーの未だ開花せぬ才を恐れての所為かも知れぬ。力そのものは未だ頼りなきものであるが、その奥にある器の大きさに、吾輩は計り知れぬ可能性を感じておった。
「やったよ! ありがとう!」
吾輩を抱き上げたナナシーは。身体全部を使って喜びを表現した。その歓喜に水を差すのは不徳の致すところとなるので、吾輩は特に抵抗する事もせず一刻も早く下ろして欲しいとただただ願うばかりにとどめた。
「ホントにありがとう! えっと、えっと、お名前は?」
「うむ。それが難儀な問題なのである」
吾輩には掛けるべき言葉を見つける事が出来なんだのである。
「しくしくしくしく……」
ナナシーは背中を丸めて座り込みさめざめと泣いておった。そのすぐ傍には件の硝壜《フラスコ》が無造作に転がっておるのであるが、先ほど高高と掲げられておった際には空であった筈のそれには無色透明な水溶液が僅かばかり揺れており、それだけでなくしっかりと栓までもがなされておった。
「どーせ、どーせボクなんてこんなもん……」
ナナシーの口から漏れ出た言葉の断片から察するに、件の硝壜《フラスコ》は対象の名を呼ぶ事でその力を吸い取ってしまう術具であると分かった。
「たったこれだけ……しくしく」
更に耳を傾けておると、ナナシーが嘆いておるのは件の硝壜の中で揺れる水溶液の量に関してであるらしかった。詰まるところ、力が大きければそれに比例して量も多くなるのであろう。
「栓を外しても元通りにはならぬのであろうか?」
「中にある魔力よりも強い魔力を持っていないと栓は外せないんだ。ボクは全部吸われてしまったから、開けられない」
吸われた者がすぐに取り戻せぬ様にするための仕掛けである。
「では、誰か他の者に頼んではどうか?」
「笑われちゃうよ。失敗した事も、量が少ない事も」
「そのような事、瑣末事ではないか」
「どうしたらいいんだ!」
ナナシーは吾輩の献策に耳を傾けなんだので、次なる方策を告げる。
「吾輩ならば開栓も可能だと思うのであるが」
「ダメだよ。だってキミ、その陣から出られないでしょ」
「試してはおらぬから何とも云えぬが、この陣は如何様な物であるか?」
「四年に一度、どこからか誰も見た事がない魔物を召喚してくれちゃう迷惑な召喚陣なんだ。大昔に地面を掘り起こして陣を壊したことがあったらしいんだけど、召喚の当日には綺麗に元通りになったんだって」
どうやらナナシーは物事の薀蓄《うんちく》語りを好んでおるらしく、先ほどまでのさめざめとした雰囲気は話しておるうちに何処かへと消え失せておった。
「それはまた難儀であるな」
「それで、呼び出されちゃうのは仕方がないから、魔力を吸い取って利用しちゃえって考えて、それを実行したのがボクのお師匠様ってわけ」
「なるほど。詰まるところ、ナナシーは吾輩の力を吸い取るためにここにやってきたのであるな?」
「そういうこと。失敗しちゃったけどね……しくしく」
再びさめざめと泣くナナシーを余所に、吾輩は内に篭って考えを巡らせておった。そうして、ここで吾輩の魔性を吸い出してもらえるのならば、吾輩は正真の有り内な猫に戻れるのではないかという考えに至ったのである。
そうとなれば、何としてもこの忌まわしき吾が魔性を吸い取ってもらわねばと心に決め、ナナシーに向き直った。
「もしこの魔性を吸い出してもらえるのであらば、それは吾輩としても望むところであるが故、一時の嘲笑になど捕らわれる事無く再び術式を執り行って欲しいと切に願うものである」
「でも、これ以上虐められるのは……」
「そこを曲げて」
「でも……」
繰り返された同様にやりとりに、吾輩の堪忍袋は緒だけでは足らずに袋その物までもが千千《ちぢ》に千切れてしまったのである。
「えぇい! 女は度胸というではないか!
「そ、そうだっけ?」
「頑として首を縦に振らぬというのであらば、一日に万里を駆ける吾輩の足を以って汝の恥業を地の果てまで知らしめてやろうぞ!」
「ええぇぇぇ!?」
吾輩は魔性に目覚めてより一度足りとも全力を出した例《ためし》がなく、この日この時も知らず知らずのうちに力を抑えておったのではあるが、それでもかつてないほどの瘴気を発した事は紛《まご》う事無き事実であった。
然れども、屹立する七本の石柱による方陣は微塵の揺るぎを見せる事も無く、吾輩は改めて感嘆を漏らす事となった。
「うわ…しゅごひ……」
目を丸くしたナナシーが吾輩を直視しておった。
「あんなに強力な瘴気は、今まで見た事ないよ」
「そうであるか。されど、吾輩には無用の物。疎ましくさえもある。これが何かの役に立つのであれば、是が非にでもその様にして頂きたい」
ナナシーは暗い表情を吾輩に向けた。
「ボクを笑われるのは構わないんだ。けど、お師匠様が笑われるのは我慢できないんだ」
人情に疎い吾輩であっても、ナナシーが言わんとする事は理解しておった。理解しておったが故、何とか活路を見出せぬものかと思案に暮れる事にしたのである。
「先ずはその栓を何とか致さねばならぬ」
「何とかって?」
「吾らのみでその栓を開けるのだ」
「どうやって?」
「それを考えるのである」
そうは云ったものの、ナナシーには開けらぬ、吾輩はこの方陣から出られぬ、では手の施し様がない。
「む?」
ふと、吾輩に閃きが起こった。
「吾輩はこの陣から出る事は叶わぬ身の上なれど、汝なれば陣内に立ち入る事も罷り通るのではないか?」
「あ、そうだね。キミ頭いいね!」
ナナシーは無造作に硝壜《フラスコ》を拾い、何ら警戒を抱かぬまま吾輩の眼前にまで歩み寄ってきたのだが、吾輩はそのあまりにも無防備な挙動に驚きを隠せなかったのである。
「なんとっ!」
「ん? どうしたの?」
「吾輩を恐れておらんのか?」
「怖かったよー さっきの瘴気なんて、もう失禁寸前」
「陣内に立ち入れば吾輩に危害を加えられるやもと思わなんだのか?」
「え? あっ! で、でも、キミにはそんなつもりはないんだよね?」
「なんとも……吾輩にはその様な野蛮な考えは毛頭ないが、魔性には舌先八寸で言い包める者が多い。多少は警戒を残しておく事を薦めるのである」
「以後、気を付けます……」
ナナシーより硝壜を受け取った吾輩は、前肢を絡めて固定した上で栓を咥え一息に開栓した。雀泪《じゃくるい》ほどの内溶液が瞬時に煙と化し宙に霧散する。
首尾良く決まったのかどうかを確認するためにナナシーの顔を窺ったところ、それはそれは嬉しそうな満面の笑みを浮かべておった。どうやら口は悪いが器量はそこそこであり、馬子にも衣装と云うのはいささか雅に欠ける物言いとなる頃合いの少女子《おとめご》であるようだ。
本人の口振りからは、ナナシーを虐げておる者供がおるようであるが、それは幼き愛情表現の一端であろう。あるいは、ナナシーの未だ開花せぬ才を恐れての所為かも知れぬ。力そのものは未だ頼りなきものであるが、その奥にある器の大きさに、吾輩は計り知れぬ可能性を感じておった。
「やったよ! ありがとう!」
吾輩を抱き上げたナナシーは。身体全部を使って喜びを表現した。その歓喜に水を差すのは不徳の致すところとなるので、吾輩は特に抵抗する事もせず一刻も早く下ろして欲しいとただただ願うばかりにとどめた。
「ホントにありがとう! えっと、えっと、お名前は?」
「うむ。それが難儀な問題なのである」