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魔女と猫のフラスコ

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 そこで吾輩は一計を案じ、肉体を離れた本性をより強く具現させた状態で長の妻の目前に臨み、金輪際繰り返さぬ様に少々懲らしめてやろうと試みたのであるが、長の妻は目前に降り立った吾輩に微塵も臆する事なく対峙し、煌煌と目を輝かせながら「吾の魂は差し上げ奉る。代わりに吾が夫と吾が子、この家に出入りする者たちに総じて等しく未来永劫に渡る苦しみを与え給え」とこうである。本物の悪魔がその様な願いを聞き入れるのかどうかは知らぬが、それほどまでの怨みが積もっておるかと思うとあまりにも不憫でならなかったので「汝には余程の怨みがあると見たのであるが、総人に等しき辛苦を与えては汝の抱く怨みに見合わずに軽く済む者がおるのではないかと思うのである。ここは一つ吾輩が与えるべき辛苦の大小を天秤に掛けて其其《それぞれ》に見合う責め苦を手配する所存であるので、誰誰に何何を受けたのか逐一に至るまで事細かに話すが良い」と冷然に云って事の仔細を聞き出す事にしたのである。

 長の妻の怨み言は半刻の時を経ても終わる気配を見せず、生まれてより幾千の季節を辿った今日まで一度足りとも負けた例《ためし》が無かった吾輩も流石に疲労を隠し切れぬ様になっていったのであるが、長の妻は吾輩に言葉を挟む隙を与える事なくその口より流れ出る怨み言は更に勢いを増して河川より氾濫した濁流の如き勢いとなったのである。
 そのまま暫く耳を傾けておると、どうやら長の妻の一方的な気随《きずい》に因るものではないらしい事が分かった。
 事細かに話せば長くもなろうが粗方の大意を述べておけば、長の妻は秘書なる小間使いと姦通しておったらしいのであるが、其其《それぞれ》の夫と主の地位を脅かす所行は慎まねばと双方合意納得の上で関係を断つに至ったとの事である。然れども、当の長は女子《おみなご》の小間使いと姦通しており、それを知り得た長の妻は秘書なる小間使いとの蜜月を再度望んだが、その時分には娘たる長女が秘書なる小間使いとの恋中にあったそうなのである。長男は後継の重圧から母を母とも思わず当たり散らし、次女は次女で資産財産を湯水の如くに使う放蕩三昧であったとの事である。
 他にも吾輩には計り知れぬ事情が多多在り、一概にこうであるという筋が示せぬ様相を帯びてしまったがため、ほとほと困り果ててしまったのである。
 さてどうしたものかと思案に入り込もうとした刹那、「奥様、大変でございます」と部屋の外より女子《おみなご》の小間使いの悲鳴にも似た呼び声が響いたのである。
 呼吸を整えた長の妻が「どうしたの」と扉越しに問うと、女子の小間使いは「猫が死んでおります」と答えた。
 四方《よも》や斯様に長くなろうとは思いもせなんだので、容れ物なる身体をそのまま扉の前に置いたままにしておったのであるが、それを見つけた女子の小間使いがこれは一大事と声を上げたのである。勿論それは吾輩の容れ物であるから死んでおるわけではないが、有り内な人間が事を見分ける眼力など持ち合わせておる筈もなく、思い違いをされたと責めるのは蒙昧な行為となるのである。
 猫が死んでおると聞いて取り乱した長の妻は足を縺れさせ、よくもこれほどと云わんばかりに部屋の中を転げまわったのである。

 その所為によって棚に飾られておった諸諸の祭具術具が床に落ちて散乱したのである。陶器は砕け鉄器は歪み惨惨たる状態となった室内にあって、長の妻は呆然と立ち尽くした。どれほどかは分からぬが、労を注ぎ込んで集めた品品であっただろうから、その反応も当然であろう。
 長の妻は足元迄で転がってきた唯一無傷であった硝壜《フラスコ》を拾うと、その端麗な唇を歪めて呟いたのである。

「まぁ、上等ねこのフラスコ」


作品名:魔女と猫のフラスコ 作家名:村崎右近