魔女と猫のフラスコ
(一) 魔女と猫のフラスコ
吾輩は化け猫である。
魔性を帯びておるとはいえ猫属である事には微塵の揺らぎもなく、吾輩自身も己が猫属の端くれである事を自覚し自認しておった。
猫属は犬属と違い人間との共生の歴史が浅く、野生の血は未だ遺伝子なるものに深く強く刻まれておる。とはいえ昨今の猫属はその見目麗しく咽喉より流れいずる鹿鳴《ろくめい》の響きと共に主やその近隣の者たちを癒している。
ところが吾輩ときたら猫としての容姿や面貌に優れておるわけでもなく特に秀でた声で鳴くわけでもないのである。
然れども人間の好尚たるや千差万別の言葉よろしく千千《ちぢ》に分かれておるようで、吾輩の様に愛想もなく諂媚《てんび》を知らぬ流浪の猫でさえも愛玩として傍らに留め置く事を望む者が存在していたのである。
吾輩はその様な者たちの所為によって人間との共生も決して悪いものではないと考えを改めるに至り、喰うに困らず寝るに危ぶまぬという実に安穏とした光陰の内を過ごす様になっておったのであるが、やはり吾輩に宿る魔性はそれを良しとはせぬらしく、何かしらに付けて奇禍に遭遇しておったのである。
吾輩は退屈しのぎに丁度良いとばかりに愉しんでおったのであるが、仮初めの主たちにしてみればその様な厄介事は迷惑でしかなく、一所《ひとところ》に長く留まり続けると災いを呼ぶ猫として忌み嫌われてしまうのである。
それは紛れもない事実であるので如何ともし難く、何より恩を仇で返すのは不徳の成すところであるので、そうなってしまった時分には一家の中でも特に愛でてくれた者の夢枕に立ち、「吾輩は災いを招く化け猫であるのでこれ以上ここに留まる事罷りならず、再び渡世猫に戻る事を決心し候れば、離床した後《のち》に吾輩の行方が見当たらぬ事を知りても決して憂慮されぬ様にと切に願う次第である」と別離の言を冷然と告げて去るのである。
吾輩としても寝食の憂いを断てる事は喜ばしくあるので、内内に蠢く魔性を抑える方便《たつき》の模索を続けており、それにより一所に留まれる時間は一年二年と緩やかながらも確実に延びていったのである。
吾輩がそれまでとは一線を駕す際会を得たのは、在留時間の延びが頭打ちになっていた折の事であった。
その時分に吾輩が仮初めの宿としておったのは、周囲を塀で取り囲んだ広い庭のある木造平屋造りの館であった。
館には長の家族以外に秘書と呼ばれる小間使いも同居しており、長とその妻、長女、長男、次女、それに吾輩を加えた六人と一匹が住んでおったのだが、館はその倍数であっても困らぬ程度の広さがあった。
どうやら館の長はその界隈の長であるらしく、道理で来客のない日は月に数えるばかりであったわけだと合点を得たものである。
長女と秘書は恋仲にあり周囲にはその事実を秘匿しているが、次女はそれを看破しており、時折交わされる二人の目配せを察知しては、吾輩を撫でながら密かにほくそ笑んでおった。長男は父である長の後継となるべく日夜勤勉に励んでおったが、実は寄せられた期待の重圧に潰れる寸前であった。
その館に於ける吾輩の仮初めの主は館の長の妻であったのだが、これが猫属の吾輩でさえも察する程に眉目秀麗な女人であり、対象的な眉目醜悪であるところの吾輩を街中で見かけたその刹那に連れ帰る事を決めたという、前述の稀有な好尚を持つ人間であったのだ。
長長と話しておるが、吾輩が際会したと云う御仁はこの家族にはおらず、またこの館に於いて邂逅《かいこう》を果たしたものでもないのであるが、必要な事であるが故もうしばし耳を傾けて欲しいと思うのである。
仮初めの主である館の長の妻は、夫である館の長に対する怨み辛みを抱え込んでおって、その強度たるや次次と怪異を呼び込むほどのものであった。ところが吾輩が棲み付いてからと云うもの、長の妻が無意識の内に呼び込んだ魑魅魍魎の類は吾輩の気配を察知し退散する様になったのである。詰まるところ、厄災を招く筈であった吾輩の魔性が厄災を払っておったのである。
故に仮初めの主である筈の館の長の妻以外の住人に福猫であるとして寵愛を受ける運びとなったのである。
館の長の妻はそれを良しとは思わなんだのであるが、良妻賢母を演じておった事や自分が連れ込んだ事もあってか吾輩を追い出す事が出来ず、悶悶とした苦悩の日々を過ごすようになっておったらしいのである。
その時分の吾輩は、妻が夫の、母が吾が子らの、家族が家族の不幸を願って已まぬ事があろうなどとは露とも思っておらなんだのである。吾輩などは、居心地が悪ければ居を移せば良いし、共に暮らすのが苦痛であるならば離れれば良いのではないかと思うのである。それが猫属の気質に因るものかは定かでないが、共に暮らす相手の不幸を願い続ける生涯にどれほどの倖《さち》があろうかと思うのである。
これらの事情を知り得た暁に、人間とは何と不自由な生き物であろうか、と吾輩は猫属の端くれであった事に改めて安堵したものである。
館には秘書とは別に通いで働く女子《おみなご》の小間使いがおり、これがまた長の妻と反りが合わず家人のおらぬ平日の日中などは家中が重苦しい空気に支配されてしまうのである。
女子の小間使いは猫属全般が苦手であるらしく、長の妻がそれを見越して吾輩を連れ帰ったのであろう事は推し量るに易いのである。
長の妻は吾輩に首枷を嵌め、更には紐を通して部屋の入口に繋いだ。
女子の小間使いの仕事の邪魔にならぬようにとの事であったが、どうにも様子が訝《いぶか》しいので女子の小間使いを自身の部屋に近づかせぬための方策なのではないかと胡乱《うろん》に思い、寝た振りなどをして魂の容れ物である肉体を離れ長の妻の室内へ入ったのである。
吾輩は所狭しと並べられた面妖な品品に目を見張った。
以前世話になった貧乏学生の住処よりも倍は広いその部屋には、国内外のありとあらゆる呪術の祭具祭器の類が一堂に会しておったのである。然れどもその様相は奇妙と云うより珍妙であり、更に悲しき事にそれらのことごとくは何の力も宿さぬ瓦落苦多《がらくた》であった。
長の妻が部屋の中央で何やら怪しげな文言を一心不乱に唱えておったのだが、辛抱強く聞いているとどうやら魔界なる異世界から悪魔なる怪異を呼び出そうとしているのだと分かった。
吾輩は現世《うつしよ》に在りし存在が魔性を帯びたものであるので、魔界やら悪魔やらと云うおよそ現実離れした存在についての真偽は与り知らぬところではあるのだが、ああも出鱈目であっては猫額《びょうがく》ほどの効果も及ぼす事は不可能であろうと結論した。