魔女と猫のフラスコ
(序) 化猫瑣談《ばけねこさだん》
吾輩の瑣談に罵詈讒謗《ばりざんぼう》を浴びせる事なく、更には飽きる事なく次なるを鶴望《かくぼう》する奇特な者たちがおると傍耳に聞き、それらの心懐に素気《すげ》無くするは迂拙《うせつ》であり暗愚に他ならぬ故、こうして再び話をする機会を設けた次第である。
近傍を見渡すに一見《いちげん》の者たちがちらりほらりと見受けられる故、改めてこの会合の趣意を敷衍《ふえん》したく思うのである。既に了得しておる者に対して重出となってしまう事には侘びを抱く次第である。
吾輩が処にて述懐《じゅっかい》しておるのは、何やら世捨て人ならぬ世捨て猫の如き生き方で誰とも深くは関わらずに往くのが格好が良いとばかり考えて次から次へと飼い主を変えながら流浪の旅を続けていた折に見聞せし瑣末事であり、人間がそのような陳腐な物語などには秋毫《しゅうごう》も興味を抱く筈はあるまいと思い敢えて語る事もせず黙し続けてきた瑣談である。
魔性を帯びておるとはいえ吾輩は猫属であるが故、人間の価値観に照らし合わせる事でいささか雅に欠ける物語となってしまう可能性は否めぬのであるが、胸の内より生じた罵詈雑言等等は一水四見《いっすいしけん》であるとして出来れば声にして発する事などせずその胸の内に留め置いて貰いたいと思うのである。
そうそう、自己紹介がまだであったな。
吾輩は化け猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何せたんと昔の事であるが故、どれほど首をひねくってみたところで思いに至る物事などは存在せぬのである。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩とてこの世に生を受けしその刹那から化け猫であったわけではない。
有り内な猫であった頃は行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、行屎送尿《こうしそうにょう》ことごとく真正の日記であった故、それらを逐一記憶などしている筈もなく、ましてやこの様に回顧した上に述懐《じゅっかい》するなどとは露とも思っていなかったのであるから、それについてかれこれ云われたところで吾輩にはいかんともし難い事象であるという事を是非とも念頭に据えて貰いたいと思うのである。
回を重ねる度に前置きが長くなる一方であるのは吾輩としても求めるところではなくその都度心苦しさを感じてはおるのだが、幾度人前で話をしようともその度に吾輩の心臓は平時よりも烈しく鼓動してしまうのである。少しばかり多弁になってしまう事には目を瞑って貰いたいと思うのである。
夜風が鈴を鳴らして早く始めよと急かしておる。狭く散らかっておるがどこでも良い。皆、腰を落ち着かせるのだ。そこな硝壜《フラスコ》は大事な物である故、済まぬが手を触れずにおいて欲しいのである。
そろそろ話を始めようと思うのであるが、そちらの準備は万端に整っておろうか?
少しばかり毛色の違う話になるが、肩肘を張る事なく気を楽にして聞いて欲しいと願うものである。