雨があがれば
最初、逃げ込んだ先に人がいたことに驚いた。
雨で通行人は散り、周りには誰もいないと思い込んでいたからだ。
「タオル」
「え」
「ずぶ濡れじゃん。貸すからさ、拭きなよ」
話しかけられたから2度びっくりした。
ありがとうございます、と失礼のないように言って、僕はタオルを受け取りつつ、彼女の顔を盗み見た。
見覚えがある気がする。どこかで会ったような・・・。
「ハンカチはさ」
「え」
「自分の使ってね。私のやつ、顔をぬぐえるほどきれいじゃないからさ」
脈絡のない発言にたじろぐ。彼女は心なしかにやにやしているように見える。
「あはは。あたしもさ、ここで雨の中、泣いたことあるんだよね。君と同じだ」
顔が赤くなっていくのがわかった。
彼女の言うとおり、僕は泣いていた。ずぶ濡れになったからわかりっこないだろうと思っていたのに。
僕は彼女に背を向け、取り出したハンカチで目元を乱暴に拭う。
「君さ、私と同じ予備校だよね」
僕の心中なんかおかまいなしに、彼女は話しかけてくる。でも、これで思い出した。この人は塾で見かけたんだ。
僕の通う塾は、正式には予備校で、大学受験を控えた高3生や浪人生も対象になっている。
そして、彼女はおそらく浪人生だろう。よく学習室でみかけた。一度も制服姿でいたことのない、彼女を。
毎日学習室で頑張ってるよね。顔、覚えちゃった」
あっけからんと笑う彼女に、なんだか毒気を抜かれてしまった。
だから、少し油断してしまったんだと思う。
「なんかあったんでしょ」
「え」
「我慢するのは体によくない。泣くならないちゃえ」
本当に不覚にも、僕はほろりと涙をこぼしてしまった。初めて話したような、赤の他人の一言で。
「あたしもね、ここで泣いたの。受験の合格発表の帰りにさ、雨ふってきちゃってね。ここで雨宿りしてね、それで、泣いたんだよね、一人で」
たどたどしい話し方で、彼女は語った。
「その日も、こうやって雨がふっててね。雨って、なんか不思議だよね。ざあざあふってると、なんだかこっちも泣きたくなっちゃうんだもん」
呼び水ってやつかなぁ、と彼女は笑う。さっきよりもずっと弱い笑い方だった。涙が退くと、なんで僕は雨宿りの先で泣いて、ほとんど初対面の人を相手にこんな話をしてるんだろう、とあらためて不思議に思った。
でも、もっと不思議だったのは、このおかしな状況を、なんだか居心地良く感じていることだった。
もっと話をしてみたいと思った。この人の話を聞きたいと思った。
「今は、どうなんですか」
「え」
「試験、落ちちゃったんでしょう?今は浪人生で、雨も、降ってるじゃないですか。泣きたくなったりはしないんですか」
今度は彼女が言葉に詰まる番だった。でも、意地悪な気持ちで言ったわけでは、決してない。
この人の言葉に、純粋に興味があった。僕の受験への疑問を晴らすヒントがあるような予感がしたから。
長い間が空いて、彼女はゆっくりと話始めた。自分の気持ちを整理しながら、という感じだった。
「泣きたい、って気持ちにはならないかな。あのとき、ここでいっぱい泣いたから。あのね、あたし、去年も君みたいに受験生だったんだ。でね、自分で言うのも変だけど、けっこう頑張って勉強、したんだよね。頭悪かったけど、ちゃんと目標も持ってるつもりだったし。でもね、結局、うまくいかなくてさ。すっごい、悔しかった。あたし、なんのためにあんなに頑張ったんだろ、って思うと、ほんとに、悲しかった。すごく、むなしかった」
ここで言葉を切って、僕を見つめてくる。
きっと僕の顔が険しくなっていたからだろう。彼女の去年の姿は、今の僕そのものだったから。だから、とても人ごととは思えなかった。
「でもね、こうしてまた受験生やって、わかるようになってきたことって、あるんだよね。私、努力は100%、絶対に報われるって思ってたんだ。でもさ、考えてみればそんなことないんだよね。うん、うまくいかないことの方が、実はずっと多いって。経験してみて、ようやくわかってきたんだ」
でも、と彼女は続ける。表情は、もう弱々しくはなかった。
「それでもね、何度もやってるうちに、うまくいくことはあるんだ。そのときって、すっごく嬉しい。飛び上がって喜びたくなるし、泣きたくもなる。この瞬間が忘れられないから、私、今も勉強してるんだと思うんだ」
彼女は、ほら、と外の方を指さす。雨はいつのまにかやんでいた。
「見て、あっち、虹が出てる」
彼女の言うとおり、夏の日差しを存分に受けて輝く大きな虹が、そこにはあった。
「まぁ、なんていうかな、雨がふらなきゃ虹は見れないってこと。うん、そういうことかな」
彼女は笑った。僕の顔も、きっと笑っていたことだろう。涙でにじんで、くしゃくしゃではあっただろうが。