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被虐的サディスティック

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   ※

 あの時――。
 高校二年に上がったばかりの春。希良はめずらしく遅くまで学校に残っていた。夕日がほとんど落ちかけ、夜に差し掛かり、外灯が少しずつ点く始めてくる。中学の部活の片づけの時間を思い出す時間帯だ。
 教室にはクラスの生徒が残っていたため、希良はずっと校舎の裏の草むらに寝そべっていた。そこは駐車場の方からでないと入れず、校舎側にも窓や扉がない上に、人が来ることはまずないため、廃ビルを見つける前までは、いつもここで一人の時間を過ごしていた。
 既にこの頃には廃ビルを利用していたのだが、前回入ろうとした時に、スーツ姿の怪しげな男二人が中にいて入れなかったため、今日も念のためと思ってここで横になっていたのだ。
 横になって無心になっていた途中で眠ってしまったらしく、普段なら夕日が陰る頃には家に着いているはずなのに、今日はすっかり長居してしまった。
 希良は想い目蓋を擦りながら、ゆっくりと身体を起こした。もやもやとした暗闇が、真夜中よりも怪しげな雰囲気を醸し出す。希良は急に一人でいることに恐怖を感じた。
 鞄を両腕で抱えて立ち上がり、すぐにバス停へと向かおうとした時、ふと忘れ物をしたことに気付いた。朝に髪型をセットしたときに、ヘアワックスをトイレに置いてきてしまったのであった。
 希良はバス停とは逆方向に進み、校舎の中に入った。幸いにも、距離的に一番近い扉の鍵はまだ閉まっていなかった。
 階段を昇り、人のいなくなった教室を横目に廊下を進んでいく。希良のクラスの教室は、トイレが一番近い位置、昇ってきた階段の真逆に位置していた。
 自分のクラスの横を通り過ぎる時は、無意識に室内に目を向けてしまう。何も求めていないのにも関わらず、心の中では誰かがまだ残っていないか気になってしょうがないのだ。
 思っていた通り、教室には既に生徒の姿は無かった。希良は確認すると、顔を正面へと戻した。
 そのまま廊下を曲がればトイレにたどり着く、と思った瞬間、急に生徒が飛び出してきた。希良は驚きのあまり叫んで後ろに大きく下がった。
 急激に活発になる心臓を右手で押さえながら、曲がり角で足を止めた生徒を見詰める。その生徒は、ひどく不機嫌そうな顔をしていた。
「な、なんだよもう……」
「あなた……大山、キラね」
 少女は表情を変えずに確認する。
「お前は確か……上原だったか」
 お互い同じクラスにも関わらずほとんど面識がなかったため、顔と名前が一致するまでに時間が掛かってしまった。
「こんな時間に何してるんだよ」
「それはあんたもでしょ」
「俺は……忘れ物しただけだ」
「うそね」
 希良は眉間に皺を寄せて首を傾げた。きっぱりと希良の理由を否定する彼女の意図が分からなかった。
「あなた、一人でずっと残ってたでしょう?」
「あぁ、そうだよ。それの何が悪い。友達いないのかって聞いてるのか?」
「違うわ。そもそも私も友達なんて持ちたくないし」
 彼女は足音を立てずにそのまま誰もいなくなった黒い教室の中へと入っていった。希良も彼女との会話を勝手に切るわけにもいかないので、彼女の後をついていく。
 彼女は教室全体を見渡せる位置に着くと、黒板や教壇がある正面には目を向けずに、生徒が一人もいない机に椅子を左から右へと視線を動かす。何かを探しているというよりは、ただじっと眺めているようだった。
「クラスってさ、これが本来の姿だと思うの」
「は……?」
「教室の明かりは点いてない。先生も教壇に立ってない。生徒も一人も席についていない。放課後の遅い時間だからそうなんじゃなくて、普段授業を受けている時や休み時間の時もそう。」
「何言ってんだ。普段は外も明るいし、ほとんどのヤツが席につい授業受けてるだろ。休み時間も昼休みとかじゃ教室に誰もいない時もあるかもしれないが、それも終われば全員戻って席についてるだろ」
「そういう表面的なことを言ってるんじゃないの。あなたはクラスって、なんだと思う?」
 千佳子は希良に顔を向けて聞いた。廊下で鉢合わせした時の表情とは打って変わって、彼女は気持ちが高ぶっているような目をしていた。
「何って……『無理矢理集められた集団』ってところか……?」
「そう。やっぱり」
 彼女は分かり切っていたかのようにすぐに返事を返すと、目線を足下に落とした。
「みんな『クラス』のことを、この教室で一年間共に過ごす『集団』だと思ってる。でも私はそうは思わない。あくまで『クラス』はこの教室のことを言うんだと思うの」
「てことはクラスメイトっていうのが、このクラスで過ごす集団なんだな」
「それも違うわ。クラスもクラスメイトも本来の意味は違っても、私はどちらも同じ意味だと思う」
 希良は再び首を傾げて頭をボリボリと掻いた。
「クラスって、一時的なものでしょ? 限られた時間に過ごすだけの関係。それ以上でもそれ以下でもない。でも、私はそんなクラスが嫌い……」
「それはなんとなく俺も分かるな。くだらない関係を作るぐらいなら、一人の方が気が楽だ」
「だから、誰もいない暗い教室が、私にとっての『クラス』なの。時間も他人も関係ない。勉強をするのなら、私はこういう空間で一人で自習をしていたいの」
「なら邪魔しない方がいいな。おれはさっさとワックス取りにいって帰――」
 希良が入ってきた扉の方へと身体を返し、廊下に出ようとした瞬間、彼女が背中越しに抱きついてきた。細い腕で精一杯に希良の身体を包み、背中からはほのかな温もりが伝わってきた。
「私はどうしたらいいのかな……。もう学校辞めるべきなのかな……?」
 千佳子は弱々しい声で聞いた。彼女の声が振動として背骨に流れた。
「中学と違って義務教育なんだから、嫌だったら辞めちまえよ。今の時代、高校中退したってバイトでもしてりゃ食ってられるし、勉強をしたいなら家でして高認でも取って、大学に入ればいいじゃねえか」
「あなたは、今のままでいいの?」
「構わないさ。俺は人生に目的なんて最初っから持ってないからな。行くところがないから学校に行く、やることがないから勉強をする。それが俺の、生き方だ」
「それ……本当にそう思ってる?」
「なんだ、文句あるのか?」
「そうじゃない。けど――本気で思ってるように聞こえない」
 彼女の声は徐々にはっきりとした元の口調に戻っていた。しかし希良の身体からは離れなかった。
「他人にすがってばかりじゃ生きていけないだろ。俺はただ……」
 それ以上言葉は続かなかった。希良はいつの間にか歯を食いしばり、ぐっと堪えていたはずの涙をこぼしていた。自然と千佳子の腕を両手で握っていた。
 希良にとって、母親以外の人間に抱かれたのはそれが初めてだった。けれど母親の安心できる温かさとは違い、彼女の温もりは心細いものだった。
 不安にはならない。しかし、頼るにはまだ力不足。
 希良はそれが母親でもなく、女にもなりきっていない、「少女」だということに気付いた時には、床に膝をつけ、彼女の腰に自分の腕を回してすがっていた。
「あなたは本当はとっても弱いのね。だけど、いつも無理をして強くみせようとしてる。でも、そんな空元気みたいな姿が、私から見るとすぐに分かっちゃうの」
作品名:被虐的サディスティック 作家名:みこと