被虐的サディスティック
大股で馨先輩の背後に立つ彼は、私の見たことのない人物だった。歳は二十代半ばくらいだろうか。若く見えるが、馨先輩やマコちゃんより年上なのは確かだ。顔の輪郭や鼻の高さは男性的だが、色白な肌や大きな瞳は、どこか女性的な雰囲気を醸し出す。
「いや、相田さんには言ってませんよ。あくまで一般的な考え方です」
「なんだ、まったく。また君は僕にケンカを売るようなつまらない論文でも作っているのかと思ったじゃないか。――おや、みっきぃじゃないか」
私と目が合うと、彼はあたかも私のことを存じているかのような言い方をした。念のため、私はぺこりと頭だけを下げた。
「ちょうどいい機会だから紹介しよう。彼は今年から新任教授になった、相田 透(あいだ とおる)さんだ」
「よろよろ。そしてこいつが俺の生意気な後輩、モリカオだ」
相田教授が馨先輩の右手を無理矢理持ち上げて言った。モリカオとは、馨先輩のフルネームの略だろう。
「みっきぃの話は聞いているよ。中学高校共に牛耳ってきた、裏番なんだってね」
「う、裏番……?」
「うん。モリカオがそう言ってた。見た目はおとなしいけど、実はやることやってるって」
「ちょ……相田さん、そんなこと言ってないですよ! 誤解されるじゃないですかっ」
「あれあれれ? かおりん誤魔化すのぉ? 透ちゃんは普段からテキトーなことばかり言う人だから当てにならないだろうけど、僕はちゃんと覚えていますよぉ?」
扉から両手でお盆の上に乗ったお茶を持ちながら、マコちゃんが笑顔で相田教授の横まで来た。
「えぇ、馨先輩、マコちゃんも言うってことは、やっぱり私のこと裏番って紹介してたんですかぁ〜?」
「いやいや! 違うんだ! ちょっと、中谷さんまでテキトーなこと言わないでくださいよ!」
あせって背中の二人に両手を左右に振る馨先輩の姿が、なんともお茶目で、私達は大笑いした。
「――それじゃ、僕らはちょっとコンビニ行ってくるから。モリカオとみっきぃは何か食べたいものある?」
「あ、私は大丈夫です」
「ん〜、僕は夕飯用にスパゲッティをお願いします」
「はいは〜い、そんじゃまたね〜」
相田教授とマコちゃんはそう言って研究室から出て行った。
馨先輩と話せただけでも安心出来たが、それでもなんだか今のノリというか、四人で冗談を交わすようなやりとりも、すごく和めた。実家で暮らしている頃は毎晩食事の時に、今のようとまでは言わなくても、家族でおしゃべりはしていたので、そんな懐かしさのようなものがあったのだろう。
だけど、去年にここに訪れた時は、相田教授はいただろうか。あんなに印象の強い人なら、目立たないはずがないし、忘れるようなこともないはずだ。
「あの……相田教授って――」
「あぁ、彼は元々准教授だったんだけど、その頃はほとんど籠もって作業してたから、顔を合わせたのは今日が初でしょう? 前の教授が亡くなってしまったから、急遽彼が教授を任されたんだよ」
「そうですよね。確か、前に奥の部屋にいたのは初老の教授で……」
「そうそう。千住教授ね」
「え……?」
ふと私の頭の中で、遠く離れた事柄が繋がりを見せた。
『祖父は大学教授だったんだけど、そこまで歳もいってなかったのに、過労で倒れてそのまま亡くなってしまったの』
「どうしたんだい?」
「あ、あのその千住教授って、何か大きな計画というか……莫大なお金が掛かる研究をしていませんでしたか?」
「……研究はそりゃ教授だからしていたけれど、そんなにお金が必要とか、そういうことは言っていなかったね……少なくとも僕の前では」
「そう、ですか……」
やっぱり単なる偶然か、と私は肩を下ろしてがくりと項垂れた。自分でも何を期待していたのかよく分からなかった。
「ただね、今ちょうど僕らの間で問題になっていることなんだけど、彼の死因にはおかしな点があるんだ」
「えっと、その千住教授は、どうして亡くなってしまったんですか?」
「一応今のところ言われているのは、事故死だね。車で大学から家に帰っている時に、ハンドル操作を間違ってしまったらしい」
馨先輩はやりきれないような顔を俯かせながら答えた。
死因も違うとなれば、やはり別人なのだろうか。
「あの、教授には娘さんとかは――」
「いるよ。教授は学生結婚したらしいからね。二人兄弟かな? その二人は学校とは全く無縁の職業についたらしいけど、孫もいたはずだよ。確か孫娘がこの間、学校の先生に就いたとか言っていたから……」
また私の中でカチリと合わさった音がした。金庫のロックが一つ外れたように。
「あの、その千住教授と家族が映った写真とかは?」
「ん、あるかな? たぶん奥の部屋に……。でも美紀君、どうしてそんなに教授のことが……?」
「ちょっと、失礼します」
私は馨先輩の質問に答える前に席を立ち、スタスタと奥に進んで扉を開けた。
中は明かりが消えているため薄暗く、タバコの臭いが充満していて、大きなパソコンが豪快に音を立てながらファンを回していた。画面には洋式トイレに羽がついたグラフィックが斜めの方向にいくつも流れている。スクリーンセーバーか何かだろう。
モニターの上の棚には家庭用よりも少し大きめのプリンターが置いてある。コルクボードが壁に掛けてあったが、そこにはマコちゃんの写真や研究室の仲間と思われる集合写真などしか貼られていなかった。
「多分、パソコンのフォルダに残っているんじゃないかな」
私の後についてきた馨先輩は、椅子を避けて中腰のままマウスに触れると、パソコンを操作し始めた。画面が一瞬にしてワードやエクセルやインターネットのウィンドウがいくつも開かれた画面になった。
馨先輩が慣れた手つきで画像フォルダを開いていくと、「S思い出」と名前の付けられたフォルダがあり、中を開くとそこには初老の教授が生徒達と酒を交わしていたり、ネクタイを頭に巻いて踊っている宴会のような写真がいくつも入っていた。
「……あった。これだ」
馨先輩がマウスのホイールでスクロールしていくと、一枚だけ学校や居酒屋ではない、背景が緑色の写真があった。どうやらどこか旅行に行ったときの写真のようであった。
馨先輩がダブルクリックすると、大きな画面に等倍に表示された。初老の白髪混じりの千住教授の隣には奥さんと思われる、眼鏡を掛けた女性がいる。さらにその隣には教授の息子さんと思われる中年の男性が二人並び、外側に並ぶ方――兄と思われる方の隣には、少し肥えた女性が並んでいる。そして写真の真ん中には、OLスーツに身を包んだ、私と年齢が変わらないような女性が笑顔を向けていた。
「……やっぱり」
眼鏡を掛けた女性は、若い頃の千住 美波先生だった。
私は何か、得体の知れない不安を感じた。
作品名:被虐的サディスティック 作家名:みこと