被虐的サディスティック
5
この不測の事態に関して、私は正直鬱憤を晴らしてもらえた気分だった。
あの佳織ちゃんのことを、希良君が殴ったのだ。理由は今のところよく分かっていないが、佳織ちゃんにも頬が若干晴れている程度で目立った怪我は無いようだし、希良君も千住先生に叱られて、素直に彼女に頭を下げたらしいので、これで一件落着のはずだ。
「今日は私が乃木坂さんと面談するから。また明日ね。お疲れ様」
放課後の先生とのやりとりはその一言で終えられ、結局私は今日の朝に起こった事件に無関係のまま、学校を去っていった。
携帯の背面ディスプレイで時間を確認する。バスを降り、駅に着いた時刻は夕方四時五分前。なんとなく真っ直ぐ家に帰るのは躊躇われた。
――寂しさ、だろうか。
私は心の中である決心をし、いつもとは違う路線の電車へと足を運んだ。
慣れない電車に揺られること三十分、目的の駅に着き、向かってくる大学生の群れに刃向かうように私は道を進んでいく。端から見れば、今からキャンパスに入ってサークル活動をしに来た学生と何ら変わりないだろう。中学や高校と違って私服のため、見た目では判別不能だし、守衛でも大学生の顔を一人一人全て把握することは出来ないだろう。
案の定、私はすんなりと目的の大学内へと侵入出来た。過去に何度か同じことをしているため、そこまで緊張はしなかった。目的は最初から決まっている。大きな窓ガラスを利用して練習するダンスサークルを避け、六階建ての真っ白な校舎を目指して歩みを進める。
校内に入るのは平気でも、緊張と不安が急に押し寄せてきて、胸の鼓動と足音が重なる。
自動ドアを抜けると、エレベーターの前に見慣れた青年の後ろ姿があった。
「あれ? あれれ? もしかして、みっきぃ?」
彼は足音か気配で気付いたのか、振り返ると少し上擦った声で私の名前を呼んだ。
「お久しぶりです。中谷さん」
「わー! うれしぃ! もう就職でもして社会人になっちゃったのかと思ってた! 忙しくて来たくなくなっちゃったのかと思ってた! まだ学生? 今何年生?」
「4年です。今は高校で教育実習してます」
「へぇへぇ、そーなんだぁ。それじゃあ今が一番大変な時期だぁ。マコはねぇ、留年しちゃったから5年生なの」
彼のフルネームは中谷 誠(なかたに まこと)と言い、自分のことを「マコ」と呼ぶ。見た目は私と同じぐらいの背丈で髪は肩に襟足が掛かるくらいに長く、初めて見る人は女の子と間違ってしまうくらい、女性的な人だ。口調も女性的で優しいため、異性であるにも関わらず気楽に話すことが出来る。
私は一年の頃からこの大学に何度か訪れていて、そこで初めて知り合ったのが彼であった。私より学年の一つ上(年齢は三つ上)の彼は大学の施設を丁寧に案内してくれて、話も面白いため、他の生徒も交えてよく呑みにも行ったりしていた。年が明けてからは一度も来ていなかったので、半年以上も顔を合わせていなかったため、私も彼に会えたことが嬉しかった。
「マコちゃん、あの……今回もいつものとこで大丈夫?」
「あー、全然大丈夫だと思うよぉ! どうせウチのゼミは人も少ないし、やることないからねー」
私は彼のことをちゃん付けで呼ぶ。自分で勝手に呼んだのではなく、彼がそう呼んでほしいと願ってきたからだ。
「ちょうど僕もせんせーに用があったから、一緒にいこっかー」
資料を両手に抱えながら、マコちゃんはエレベーターへと案内してくれた。彼の無垢な笑顔を見ると、心にミントの香りを含ませたように癒される。
「あ、もしかしたらねぇ、みんなちょっとピリピリしてるかもしれない」
エレベーターの扉が閉まると同時にマコちゃんは言った。
「ケンカとか、ですか?」
「ううん、そうじゃないんだけど、ちょっとね……」
マコちゃんは言葉を濁したまま、目的の四階に着き、ゆっくりと開く扉の外へと進んでいった。
事務室と書かれた扉を通り過ぎ、廊下を奥に進んだところにある研究室3という扉をマコちゃんは軽くノックした。「どうぞ」と低声が扉の奥から響いた。
一年振りの再会に、私は胸が弾む反面、ある不安にも駆られた。
(大丈夫、大丈夫)
両手が塞がっているマコちゃんの代わりに、私がノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開けた。蛍光灯を反射して真っ白な壁が視界に入り、目をチカチカとさせた。
部屋の中に入るとグレーのソファと低いテーブルがあり、テーブルには資料と思われるプリントや本が積み上がっている。決して散乱しているわけではなく、逆に積み木のように丁寧に積まれている。曇りガラスのパーテーションがそのちょっとした休憩室のような空間を仕切り、奥には大きなデスクトップパソコンの液晶に向かってキーボードを巧みに打ち込む銀髪の青年が座っていた。
「かおりんかおりん、聞いて聞いて! みっきぃが久しぶりに遊びに来たよー!」
「みっきぃ……って、え、本当かい?」
白衣を纏った彼は、大きな椅子をデスクから引くと、銀縁の眼鏡を掛けた顔を私とマコちゃんに向けた。
「ご無沙汰です。――馨先輩」
私は小さくお辞儀をして、朗らかな笑顔を守屋 馨(もりや かおる)先輩に向けた。
私が馨先輩と出会ったのは、中学二年になったばかりの4月だった。
頭脳明晰で、巨体の相手も投げ飛ばせる腕力を持ち、当時起きた大きな事件を解決へと導いたのは、中学三年生だった彼一人のおかげだった。
要旨は私より頭一つ高い長身に、彫りの深い人形のような顔に違和感のない銀の髪が、彼の神秘さと色気を際だたせる。
そんな欠点のない馨先輩だが、彼はその時の事件で、家族をほとんど失ってしまった。両親はもちろん、血の繋がっていない兄姉までもこの世から消えてしまったのだ。
当時からある理由で一人暮らしをしていた馨先輩は、その事件をきっかけに孤独になってしまったのだが、彼はそれに屈することなく学業に励み、高校、大学と共に特待生として学年のトップに立ち続け、学費も全額免除で卒業をした。
今年からは大学院生となり、大学から続けて心理学を専攻している。もちろん成績は優秀過ぎて教授に気に入られ、この研究室はほぼ馨先輩のためだけにあるようなものらしい。
そんな馨先輩に、どうして私のような凡人が、関わりあるのかと言うと。
中学生の時に彼に出会った時、私は産まれて初めて、一目惚れというものを体験した。それまでは恋愛すらもフィクションの中だけにあるものと思っていた私に、本当の恋というものを教えてくれた。それが――馨先輩だったのである。
出会ってから何ヶ月かは一緒に登下校したり、休日も二人で映画を見に行ったりしていたが、夏休み前のあたりで私より一つ上の馨先輩は受験の準備に入ったため、次第に関わりは減っていった。もちろん私は一人で帰るのが寂しいのが本音だったが、それでも受験なら仕方ないと思うしかないし、それを紛らわす意味でも生徒会に立候補をしたのは、結果的に大成功したので、結果オーライでもあった。
高校に入ってからは互いに別な学校に通うことになったため、顔を合わせる回数はさらに減ったが、受験期間とは違って週に一度の休日くらいは会うことが出来たので、ある程度満足出来た。
作品名:被虐的サディスティック 作家名:みこと