ブラックジャックの消息
Episode.3
30分くらい走っただろうか。
バスの最終停車所で二人は降りた。
閑散としたバス停は、海水浴シーズンには賑わうであろう土産屋の前にあった。
道路を挟んだ向こうにはコンクリートの堤防があり、灯台らしき建造物も見えた。
「海、見たかったんだよね。何となく。」
ポツリと言うと達也は恵の手を引いたまま、誘われるように歩き出した。
潮風の香りがして、海岸独特のベタっとした空気が体を包む。
二人は堤防の小さな階段をよじ登った。
途端、目の前に真っ白な砂浜と真っ青な海が広がった。
強い潮風が二人の髪を吹き上げた。
「サイコーじゃん。来て良かったね。」
テンションの上がった恵は堤防から飛び降りると砂浜を走り出した。
ヒールの高いサンダルを脱ぐと温かい砂に素足が埋まる。
達也はゆっくり降りて来るとスニーカーと靴下をおもむろに脱いだ。
子犬のように興奮して恵は砂浜に転がった。
「黒田君も寝てみれば?」
「オレは急に走るのダメなんだって。発作が起きてここで死んだら、お前どうやってオレの体持って帰るんだよ?」
恵ははっとして起き上がった。
達也の心臓の病気のことはいつも忘れてしまう。
のろのろと横に座った達也に恵はすまない顔をしてみせた。
「ごめん、忘れてた。」
「いいよ。むしろ忘れてくれ。」
二人は砂にまみれてその場に寝転がる。
真っ青な空に白い雲がどんどん流れていく。
ドー・・・という海鳴りが腹に響いてくる。
恵は首を横に向けて達也の顔を見て言った。
「あたしたち、付き合ってるの?」
「えっ?」
ぎょっとして達也も顔を向ける。
「だってこれデートでしょ?この前、香奈に聞かれたんだ。ジャックと付き合ってるのかって。」
達也は怪訝そうな顔をして聞き返す。
「・・・・ジャックって誰?」
言われて恵はあっと口を塞いだ。
そうだ、このあだ名は本人だけは知らなかったんだ。
当然か。
でも、もう時効かな。
恵は決心して言った。
「黒田君のこと皆ブラックジャックって呼んでるんだよ。だから略してジャック。小学校からだけど気が付かなかった?」
「・・・なんでブラックジャックだよ?」
「小学校の時、絡まれた時にシャツ脱いだことあったじゃん。あれから。」
達也はああ、とやっと腑に落ちた顔をした。
手を胸に当ててみせる。
「これのこと?」
「そう。あたしは後ろにいたから見てないけど。傷跡がすごくてブラックジャックみたいだってさ。」
怒り出すかとヒヤヒヤしていたが、意外にも達也は笑い出した。
「うまいこと言うなあ。全然知らなかったけど、光栄だね。オレ外科医になりたから。」
「へえ?」
初めて聞く達也の夢だった。
「なんで?」
「よくある話だけど、オレ何度も手術してるじゃん?その時の先生がなんかカッコよく見えてさ。子供心にこんな大人になりたいって思ったんだよね。」
「へえ」
恵はせつなくなった。
将来の夢を語る達也は死ぬかも知れない覚悟で今ここにいるのだ。
その夢は叶わないかもしれないのに。
「無理だと思った?」
思ったことが顔に出たのか、突然達也が聞いた。
「ご、ごめん。そういう訳じゃ・・・。」
「謝るなよ。お前分かりやすいんだよ、顔が。」
笑いながら達也は優しく言った。
「木下さあ、変なこと聞くけど、生理きた?」
「・・・はっ?」
突然の質問に恵は赤面して飛び起きる。
「な、何言ってんのよ?今までの話と関係ないしっ!」
あははと達也は恵の動揺ぶりを見て笑った。
「うん、聞いただけ。オレは外科医になるどころか、まず大人になるのが目標だからさ。女の子は早く大人になれていいなって思っただけ。」
ニヤニヤして達也は言ったが、恵にはそれが泣いているように聴こえた。
「つまりさ、オレ今でも小さいし、運動もできないし、体も貧弱だし。早く大きくなりたいけどそれどこじゃなくなってきたしね。木下だってこんなのと付き合ってるって思われたら迷惑だろ?だから、香奈には否定しとけよ。ジャックとは付き合ってないって。」
恵は座ったまま膝を抱えて、達也の言葉を聞いていた。
しばらくの沈黙の後、恵はゆっくりと言った。
「・・・黒田君はかっこいいよ。」
仰向けに寝たままの姿勢で達也は恵を見上げる。
「あの時、上着脱いで怒鳴った時、すごくカッコよかった。頭いいのも努力してるからでしょ?それもかっこいい。小さいけど、病気と戦ってる体もかっこいいと思う。」
恵は達也の顔を覗き込んだ。
そのまま体をかがめて顔を近づけ、そっとキスをした。
お互いの乾いた唇の感触が伝わる。
達也は切れ長の目を見開いて硬直した。
「ねえ、あたしにもブラックジャックの傷見せて。」
呆然とする達也のシャツをそっと上げると痩せた胸部が顕わになった。
白い肌に痛々しい傷が確かにある。
恵はその傷にもそっとキスした。
達也の体がビクっと反応する。
耳を当てると達也の速い鼓動が聞こえた。
達也が生まれたときから何度も手術してきた心臓の音だ。
「頑張ってね。」
恵は達也の心臓に向けて声を掛けた。
そして彼の顔をまた覗き込む。
達也は目を見開いたまま呆然として、されるがままになっていた。
その顔を見下ろして、恵は笑った。
「もう、大丈夫。あたしが達也の心臓様にお願いしといたからね。」
「・・・・びっくりさせるなよ。発作がおきるかと思った。」
言うなり、達也は恵の腕を掴んで引き寄せた。
二人は砂浜の上で横になったまま抱き合い、そして何度もキスをした。
砂が髪や顔に張り付くのも構わず、二人は固く抱きしめあった。
いつのまにか水平線の彼方に沈み始めた夕日が、砂まみれになった二人の顔をセピア色に照らし出した。
作品名:ブラックジャックの消息 作家名:雪猫