インパラの涙
「いーや、インパラだったよ。あの走りは。必死に逃げてる感がさ。」
透は急に笑うのを止めた。
そして真面目な顔になって低い声でぽつりと言った。
「そうだね。オレはいつも走ってる気がする。追いかけるんじゃなくて逃げる為に。」
突然の詩的表現に、美紀は怒らせたのかと思い、透の横に座り直した。
「・・・ごめん。変なこと言った?」
透は少し笑って首を振った。
何故だか分からない。
美紀はその顔が泣いているように見えた。
両腕を透の首に回して顔を近づけけキスした。
透の乾いた唇の感触が伝わる。
彼はしばらく眼鏡の奥の目を丸くして至近距離にある美紀の顔を凝視していた。
やがてはっと我に返ったように美紀の腕を掴むと、顔を引き離した。
「・・・同情してくれたの?」
「・・・別に。」
「オレのこと好きだったの?」
「嫌いじゃないけど。付き合い長いし。」
「・・・オレ、初めてだったんだけど。」
「私も。」
「女の人って最初はこだわるんじゃないの?オレが相手じゃ・・・」
美紀はまだ喋り続ける透に抱きつくとその口に唇を再び押し付け黙らせた。
「・・・・。」
「グダグダうるさいな。私が相手じゃ不服?」
透は噴き出した。
「いや、光栄です。」
言うなり透の長い両腕は美紀の体を抱きしめた。
もう一度ゆっくりと口付けた後、美紀の首筋に彼の舌が這い、大きな手がランニングシャツの中に入る。
美紀の呼吸が荒くなる。
美紀の両腕が透の濡れた髪を掴んだ。
二人は絡み合ったまま畳の上に身を投げ出した。
何時間経ったのだろう。
髪を触る指の感触に気付いて美紀は目を開けた。
クーラーの規則的な機械音だけが狭い部屋に響いている。
窓の外はもう真っ暗だった。
美紀を片腕に抱いたまま、眠ってしまったらしい。
至近距離に透の白い横顔があった。
眼鏡を外して、髪が目に掛かっている透は こうして見るとなかなかイケている。
美紀を抱きしめる体は痩せているが筋肉質で、陸上部で走っていた頃の面影はあった。
目を開けた美紀に気付いて、透は顔を向けるとそっとキスした。
「透、私ね、いつも思ってた。」
突然話し出した美紀に、透は優しく微笑む。
「透の走るところ、すごくきれいだった。身軽で自由で楽しそうだった。」
透は低い声で笑って美紀の頭を自分の胸に押し付けた。
胸の鼓動が美紀の頭の中に響く。
「・・・そうなりたいね。早く大人になって自由になりたい。」
そういう彼の声が少し震える。
「透?」
「・・・。」
「泣いてるの?」
「・・・言うなよ。」
「お母さんの再婚が嫌なの?」
「嫌じゃない。でもそんなことで人生左右される自分の存在が情けなくて歯痒くて悔しい。」
美紀を抱きしめる両腕に力が入った。
「だから、早く一人で生きていけるようになりたい。だからオレ・・・。」
美紀の唇が言葉を遮った。
透の涙で濡れた顔にキスをする。
「透の準備ができるまで私待ってるよ。また一緒に走ろう。」
透は美紀の胸に顔を埋めた。
子供の頃のように美紀は透を抱きしめて髪をなでた。
彼のしなやかな肢体は本当にインパラのようだ。
この美しい獣がまた縦横無尽に走り回る姿を、美紀は見たかった。