インパラの涙
Episode.1
暑い夏だった。
もっとも冷夏と言われる年も、大体暑いと感じるものだが。
高校2年だった美紀は陸上部の練習を終え、夕暮れのグラウンドを歩いていた。
アブラゼミのこえが響いている。
泥だらけのシャツが体にべっとりまとわりついた。
水道水をゴクゴク喉を鳴らして飲む。
褐色に日焼けした顔を水道水で洗うついでに、ショートヘアの頭を突っ込みガシガシ洗った。
ふと視線を感じ、前を見ると金網の向こうでこちらを見つめる人影がいる。
「透?今帰り?」
美紀は汚れたシャツをまくってゴシゴシと顔を拭きながら聞いた。
「うん。一緒にかえろか。」
色の白い少年が近づいて来て金網ごしに言った。
色白で眼鏡をかけた透は優等生のお坊ちゃんに見える。
優等生なのは本当だったが、残念ながらお坊ちゃんではなかった。
同じ市営住宅の隣同士の部屋だった透と美紀は一人っ子同士だったこともあって兄妹のように付き合ってきた。
親同士も仲が良くよく家族ぐるみでバーベキューなんかしたものだ。
透の父親が突然会社で倒れてそのまま亡くなってからは、一緒に出掛ける事は少なくなった。
透が中学校の時だった。
透の母親が家計を助ける為仕事に出始め、家事全般を透がするようになったから、遊びに行く暇が無くなってしまったのだ。
美紀の母はそんな透に、夕飯を作って美紀に届けさせたりしていた。
「焼けたな。前か後ろか分かんないよ。」
透が苦笑する。
「あんたは白過ぎて前か後ろか分かんないよ。」
美紀は膨れて見せる。
「オレも暇があればまた走りたいんだけどな。まあ、高校時代は勉強しないと。」
透は中学校までは美紀と同じ陸上部だった。
今はこんな彼でも県大会まで行った中距離選手だったのだ。
「やっな奴。いつもトップの成績のくせにまだ勉強すんの?しかも高校って最近入ったばっかだし。」
今期に入って早々の試験でかなり下位だった美紀は声を荒げた。
「ひがむな。宿題写させてやるから。オレは頭が良い貧乏人だから、推薦で奨学金もらって国立大学に入らないと、他にオプションないしな。」
透は笑いながらサラリとシュールなことを言う。
自虐ネタか?
「なんか笑えませんけど。」
美紀は真っ黒な顔から目だけぎょろりと睨む。
透は首をすくめた。
「ごめん、つまんないこと言った。」
典型的な昭和な団地の二人の家は 階段を上がった踊り場を境に左右対称に並んでいる。
美紀がドアノブに手をかけると鍵が掛かっていた。
透は反対側のドアをさっさと開けて じゃあ、と言って入ってしまった。
誰もいないのかな?
仕方なく合鍵で開けて入ると締め切った部屋から熱気が顔に当たった。
夕食がおいてある筈のダイニングテーブルにはメモが一枚置いてある。
[お父さんのお姉さんが亡くなりました。お父さんと二人で行ってきますので今夜は帰れません。
戸締りよろしくね。]
昨年から癌で入退院を繰り返していた伯母さんだ。
事情は分かるが・・・。
「私の夕飯より戸締りの方が大事か。」
美紀は汚れたシャツを脱いで裸になると風呂場に直行した。
ショートパンツにランニングTシャツだけ着て美紀は玄関のドアを開けた。
こんな時は透のうちに行けば何か食べられる。
透のおばさんの車が駐車場にあるのは確認済みだ。
「ごめんくださ~い。おじゃましま~す。」
勝手にドアを開け返事も待たずに中に入った。
子供の頃からの習慣だ。
狭い家の中は締め切られてクーラーが効いている。
「うちの親がいなくって~。なんか食べるものありますか?」
6畳の畳の部屋にちゃぶ台を前に座り込んでいた透がいた。
彼も風呂上りなのか髪が濡れてランニングシャツにトランクスといういでたちだ。
いつものことなので、突然の乱入に表情も変えず答える。
「・・・カップラーメンで良ければ。」
「はあ?おばさんは?」
透は銀縁眼鏡の奥からジロリと睨んだ。
「あいにくおかあさんは今日は帰らない。ラーメンで良かったら勝手に作って食べてって。」
「え~!ご飯ないの?」
美紀は情けない声を出して座り込んだ。
透は黙って立ち上がって台所に立つと鍋に湯を沸かし始めた。
「ほら、出前一丁。文句言わずに食え。」
畳の上に大の字になって転がっている美紀に透は軽い蹴りを入れる。
参考書や辞書が散らばったちゃぶ台に、湯気の立ったどんぶりを置いた。
「も~シケシケじゃん。なんでおばさんいないの?車があるのチェックしてから来たのに。」
文句言いながらもズルズル音を立ててラーメンを吸い込む。
空腹には勝てない年頃だ。
ちゃぶ台の反対側に透は胡坐をかいて座った。
賢そうな白い顔が少し陰ったように見えた。
「最近時々帰って来ないよ。」
ラーメンをすすっている美紀の手が それを聞いて止まった。
「何で?夜勤でもしてるの?」
透は言おうか言うまいか考えているように少し沈黙してから、低い声で言った。
「彼氏ができたみたい。結婚前提の。」
美紀はラーメンを噴出した。
透はそれを冷静に見つめる。
「・・・おい。汁が飛んだぞ。」
「ご、ごめん。だってさ。おばさん再婚するの?」
「まだ、わかんないけど。泊まってくるんだから まあそのつもりかなあ。」
透は人事のように言った。
美紀はラーメンをがっついている場合で無い気がして箸を置いた。
「透は賛成なんだ?」
「・・・賛成も反対もないでしょ。所詮扶養家族だし養われてる限りは。」
透は少し笑った。
「だからさ、この先どうなるか分かんないから準備だけはしとかなきゃって思うんだよね。最近特に。勉強だけでもできれば、金のことでは迷惑掛からないだろうし。」
美紀はまじまじと透を見つめた。
「それで走るの辞めて勉強してるんだ?」
「・・・優先順位から言ったら勉強の方が大事だからね。こっちはお母さんの再婚先次第で切羽詰るけど、走るのはいつでもできるから。」
透は美紀の焼けた肌を眩しそうに見た。
「オレもかなり黒かったけど、お前はひどいなあ。でも、オレもまた一緒に走りたいな。」
美紀は透が自分と違う次元で悩み、頑張っていることに驚いた。
受験の為とか、義務だからではなく、彼にとっての勉強は生きる手段なのだ。
「・・・透はえらいよ。自立しようと勉強してるんだもん。私なんか将来のこととか、勉強する意味なんて考えたこともないし・・・。」
心から思って美紀は言った。
透は少し照れくさそうに笑う。
「オレはこんな家庭環境だからね。でも、お前は走るの辞めるなよ。お前の走ってるとこハイエナみたいでカッコいいから。」
ハイエナ・・・?
「意味分かんない。せめてチーターって言ってよ。」
透は、あははと明るく笑った。
「何かお前のイメージがハイエナなんだよ。チーターみたいに余裕ある感じじゃなくてさ。なりふり構わず獲物を追っかける、みたいな。必死な走り方がいい。」
「それを言ったらあんたが800M走るときってインパラみたいだったよ。」
むくれながら美紀が反撃する。
「・・・せめてカモシカって言ってくれよ。」
透は苦笑した。