遼州戦記 保安隊日乗 6
誠は自分には少しばかり女性恐怖症の気があるのではないか。その顔を見て背筋が寒くなる自分を感じながらそんなことを考えていた。
低殺傷火器(ローリーサルウェポン)47
「まだ……決心は付かないのかな?」
真新しいちゃぶ台。あの墓場のような湾岸地区のアパートを後にしたときにすべての家具は処分した。新しい生活が始まる。そう確信していた。水島にとってそれはまさに再出発のはずだった。
だが目の前で頬杖を付く少年を見ているとそれがいかに浅はかな考えだったのか思い知らされてくる。再出発なんてできるわけがない。過去のない人間なんていないのだから。過去とのつながり、過去との折り合いを付けることを放棄したときから今の脅迫めいた目つきをする恐ろしい餓鬼の瞳を目にする運命にあった。そう思ってみたところで急須を持つ手の震えを止めることなどできない話だった。
水島を苛立たせる嫌な目つきのクリタ少年の隣では例のキャシーと名乗る少女が目をつぶってじっと俯いていた。今日は玄関から来た二人。その二人が当然のようにこの水島の住処にたどり着いて腰を据えてからずっと彼女は同じ姿勢を保っていた。
「そちらのお嬢さんは……何を?」
他に言うべき言葉が見つからずに吐きだした水島の言葉が届いたのか、ようやくキャシーは顔を上げた。だがその目は浮ついていて水島を見ているとは思えない。
「ご馳走になりますね」
相変わらず長い黒髪を揺らしながら静かに湯飲みに手を伸ばした。クリタ少年はそれを見てもまだ目の前の湯飲みには関心が無いというようにキャシーを見つめる水島の観察を続けていた。
二人の能力をサーチしすれば逃げ出すことはできるかもしれない。だが、一体どこに逃げればいいのか?水島には分からなかった。恐らくサーチを始めた段階で気づかれて少なくとも水島に敵意を持っていない二人の同類を敵に回すことになる。それから先にできることと言えば警察署に自首する位のことだろう。
そんな水島の動揺を見透かしたようにクリタ少年は満足げな笑みを浮かべた。目の前で湯気を立てる自分のための茶を断る理由は無いと言うように手を伸ばし当然のように音を立てて啜り込んだ。
「そう言えば……もうそろそろ僕のタレこんだ情報を東都警察もつかむころだよ……」
少年の言葉。水島は手にしていた急須を取り落とした。ちゃぶ台から転がり落ちた急須はそのまま畳の上にひっくり返り残った茶をあたりにまき散らす。立ち上る湯気、しばらく言葉の意味が分からずに空転していた水島の頭の中にはっきりと『タレこんだ』という言葉が刻み込まれた。
水島は少年を睨み付けた。クリタ少年は表情を変えることなく水島を見つめている。悪事がばれた子供でさえもう少し悪気を感じた目の色をしているものだ。
「お……大人をからかうもんじゃないよ……」
水島は自分の喉が動揺で震えているのを感じながらどうにか言葉の体をなしたというような音を口から出した。それでもクリタ少年の表情は笑みで埋め尽くされたまま変わることがない。
「からかってなんかいないさ。むしろ文句を言いたいのはこちらの方なんだから。おいたはするなってあれほど念押ししていたのに……事件を次々と起こしちゃってさ……」
クリタ少年はそう言うと静かに湯飲みをちゃぶ台に置いた。
そしてその瞳が上目がちに水島を捉えた。その虚ろな姿。恐怖というもの、それまで考えていた恐怖というものの具体的な形を初めて見た水島はただ動けずに座り込んでいた。
「これ以上は我々は待てないってことだよ……分かったかい?お馬鹿さん」
少年から聞くとは思えない言葉が部屋に響いた。水島は再び意識して少年を見たがそこには見慣れてきた単純に事態を楽しんでいる少年らしい笑顔があった。それでも先ほどの少年の顔に浮かんだ恫喝の視線は水島の脳裏から離れることは無かった。頷くこともしゃべることもできずにただズボンの膝のあたりに染みこむお湯の温度だけを感じていた。
「どうやら水島さんは私達と来る気は無いみたいね」
ぽつりとキャシーがつぶやく。水島は必死になって首を振ろうとするが金縛りにあったように体は言うことを聞かない。
「ああ、それならあと三時間くらいこの部屋で過ごすと良いよ。それだけ待てば東都警察も重い腰を上げるだろうからね。それとも動くのは保安隊かな?まあどちらでもいい話なんだけどね、僕にとっては」
何とか金縛りを解こうと力を入れた拍子に水島の脂肪の厚い腹がちゃぶ台にぶつかって揺れる。その弾みで少しこぼれたクリタ少年の目の前の茶色い湯飲み。それをハンカチでぬぐいながら手に取るクリタ少年はどこまでのその見た目通りの10歳に届かない少年だった。
思えば彼が米軍と関係する組織の人間だと言うことは彼自身の言葉意外に証明するものは何もなかった。その言葉にはどことなく信用できない雰囲気がまとわり付いていると水島は思いたかった。隣の少女も多少クリタ少年よりは分別がありそうには見えるが彼女から有益な情報が聞き出せると言う雰囲気は丸でない。事実今も再び目をつぶって俯いて水島が言葉をかけたとしても返事をしてもらえるかどうかすら定かではない。
「東都警察……違法法術行使は懲役2年だね……これまでの起訴事件は三件。判決が出た一件は法術に対する使用者の軽い思い違いがあったということで執行猶予の判決だったはず……」
とりあえず沈黙に耐えきれずに水島は聞きかじった知識を口に出してみた。だが少年の笑みは崩れることは無い。それどころかそう水島が言い出すに違いないと読んでいたと言うように満足げに頷いてさえいる。
「それはまた……ずいぶん希望的な見方をなさっているようですわね。確かに私もその話は聞いています。駐車場に止めてあった車のタイヤをバーストさせたおじいさんが被告だった話ですわよね、その事件は」
珍しく少女が口を開く。水島は驚きとともに少女を見つめた。はっきりとその黒い瞳は水島を見据えていた。反論は何もない。事件の詳細については水島も少女の口から初めて聞いたくらいだった。
少女はそのまま湯飲みの中に視線を落とした。沈黙の後、静かに茶を口に含む。
「確かに僕の場合とは違うね……死者が出ているから」
「ご存知ならいいんです。なら迷うことは無いと思うのですが……」
そう言うと少女は珍しくちゃぶ台の中央に置かれたみかんに手を伸ばした。水島はただひたすら反論の材料を頭の中から引き出そうとする。
「それなら……実験材料や戦争の小道具に使われるなら……牢屋の中のほうがずっとすごしやすいと思うんだけどな」
水島の苦し紛れの一言。少女は剥いたみかんの袋を一つ手に取ると口に放り込む。クリタ少年は動揺する水島の様子が本当に面白いと言うように相変わらず頬杖をついて笑っていた。
「それも甘いですね。あなたの犯罪については同盟司法局が動いています。同盟司法局は名前の通り遼州同盟の司法執行機関です」
「だから何が言いたい……」
「言いたいことがあるのはおじさんじゃないの?」
クリタ少年はそう言うと顔を上げる。そのまま背筋を伸ばしてじっと水島を見つめてきた。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 6 作家名:橋本 直



