遼州戦記 保安隊日乗 6
呆れながら真剣な表情の小さなシャムに目をやる。身長は140センチに届かない小柄な少女。実際は誠よりもはるかに年上で遼南内戦ではエースとして活躍した歴戦の勇士である。彼女の凄みを利かせた目は最近では誠もその恐さが分かってきたところだった。
「誠ちゃんも……アイシャの小説読むでしょ?」
真剣な顔でつぶやくシャム。誠はいくつかの短編をアイシャに読まされた上に漫画を描かされたのを思い出して渋々頷いた。
「男の人が読むと……どんな感じ?」
シャムの目はじっとグレゴリウスに注がれている。シャムが大好きな彼だが当然文字が読めるわけでもなく、人が読むのをまねして本を開いて覗き込んでいるだけだった。
「それが知りたくてこうしてグレゴリウスに読ませているんですか?」
投げやりにつぶやいた誠を見ると今度はいかにも軽蔑するような視線で誠を見つめてくるシャムがそこにいた。
「グレゴリウスは熊だよ。漫画なんて読めるわけ無いじゃん」
馬鹿にした口調のシャム。時折こういうことを言われると温厚な誠もさすがにカチンと来る。
「じゃあどけてくださいよ。入れないじゃないですか」
「?」
文句を言った誠にしばらく呆然と視線を送るシャム。そしてワンテンポ遅れて納得したと言うように手を打つと手にしていた干し肉をグレゴリウスの口に投げ込んだ。グレゴリウスは器用にそれを口に咥えると本を放り出してそのまま自分の小屋がある車両置き場に向かって歩き始める。
「それ、プレゼントだから」
のろのろ着いていくシャムがそうつぶやく。隣の亀の亀吉もゆっくりとそれについていく。仕方が無くいかにも怪しげな半裸の美少年達が描かれた同人誌を手に取るとそのまま正面玄関から部隊の宿舎に入った。
「あれ……?あれ?」
そこで誠は大きなため息をついた。目の前には紺色の長い髪の少佐の勤務服を着た女性士官。一番この手の本を手にしている時に出会いたくない上官のアイシャ・クラウゼだった。
「それ……シャムちゃんの……もしかして使用済み?」
「使用って何に使うんですか!」
「だって冬なのにそんなに汗をかいて……」
「ランニングが終わったんです!」
「ふーん。つまらないの」
そう言うと誠から関心が無くなったというように振り向いて彼女の本来の職場である運行部の部屋の扉に手をかけた。
「ああ、そうだ。シャワー浴びてからでいいと思うんだけど……」
今度はうって変わった緊張したまなざしを誠に向けてくる。いつものこういう切り替えの早いアイシャには誠は振り回されてばかりだった。
「ええ……なんですか?」
そう言う誠が明らかに自分を恐れているように見えてアイシャは満面の笑みを浮かべた。
「茜のお姉さんが来てるのよ。何でも法術特捜からのお願いがあるみたいで」
アイシャはそう言うとそのまま階段下のトイレに消えていった。
「嵯峨警視正が?」
誠は予想されたことがやってきたと言うように静かにうなづいた。ようやく間借りしていたこの保安隊豊川基地から東都の司法局ビルに引っ越した法術特捜の責任者である彼女の忙しさは誠も良く知っていた。司法局のビルには最新設備がある。データもすぐに同盟本部や各国の軍や警察のデータがかなり機密レベルの高いものまで閲覧できる権限を有しているのが売りだった。
だがその筋の専門家の吉田に言わせると『ハッキングして下さいといってるみたい』と言うメインフレームを使っていると言うことで、茜はあまりそのことを喜んでいないようだった。事実、こうして時々保安隊に顔を出しては吉田が設計したメインフレームを使用している保安隊のメインコンピュータを利用して手持ちのデータのすり合わせなどの地味な作業を行うことも珍しくなかった。そしてその時に人手が足りないとなると一番暇と呼ばれている誠の第二小隊がその作業を担当させられることが多かった。
そしてそんなデータの照合作業を断れない案件には今回ばかりは誠でさえ思い当たるところがある。
「面倒だなあ」
そう言いながら運行部の詰め所を抜け、シミュレータ室の前を通り過ぎて待機室の手前にある男子用シャワー室に誠はたどり着いた。
先着の人物がいるらしくシャワーの音が響いていた。誠はそのまま静かに服を脱ぐと手前のシャワーの蛇口をひねった。
「神前曹長!」
隣から目だけを出している褐色の顔の持ち主に誠はびくりと飛び上がった。
第三小隊三番機担当のパイロット、アン・ナン・パク。このまだ19歳の小柄な人物が誠の苦手な人物の一人だった。
「なんだ……アンか……」
「僕だと不満ですか?」
そう言いながら近づいてくるアンに思わず後ずさりする誠。その少女のような瞳で見られると誠は動けなくなる癖があった。
「神前曹長はいつも僕を避けていますね」
アンはそう言うと悲しそうにシャワーを浴び始める。確かにそれが事実であるだけに誠は頭から降り注ぐお湯の中に顔を突っ込んでそのままシャンプーを頭に思い切りふりかけた。
「そうですよね。僕なんか嫌いですよね。僕みたいに……」
そこまでで言葉を切るアン。
『おい……もしかして男が好きだとか言い出すのか?まじで勘弁してください!神様!仏様!』
アイシャの小説を読まされ続けて蕩けてきた脳が妄想を開始する。大体が立場は逆で長身の上官がひ弱な部下を襲う展開が多かったが、一部には逆転している作品もあったのでボーイズラブの世界に落ち込むのではないかと恐れつつ時が経つのを待っていた。
「僕は……」
アンがそういうのとシャワー室の扉が吹き飛ぶのが同時の出来事だった。
「神前!いい加減に出て来いや!いつまで待たせんだ!」
怒鳴る、そして壊す。これは西園寺要の十八番である。男子シャワー室に一応女性の要が乱入してくるマナー違反よりこのままアンと二人きりで時を過ごすことを想像していた誠にはありがたい出来事だった。
「もう少し待っててくださいね……なんとかしますから」
弱弱しい誠の声を聞いた要が近づいてくるのが分かる。だが何か入り口の辺りで衣類をかき回すような音が誠の耳にも響いてきた。
「おう、アンと一緒か……」
しばらく沈黙が支配する。誠は息を殺して立ち尽くしていた。その隣では不安そうにちらちら誠の顔を覗き見るアンの目が動いているのが見えた。
「……もしかして……」
背中にシャワーを浴びながら立ち尽くしている誠。周りは見えないが明らかに要の気配は近づいている。しかしその様子がぴたりと止まった。誠が隣のシャワーを見るとアンの姿が消えていた。
「なんだよアン?」
「西園寺さん!非常識ですよ!」
どうやらアンがシャワーを出て要の前に立ちはだかっているようだと言うのが目をつぶっていても分かった。誠は全身全霊をかけてアンに言いたいことがあった。
『変なことは言うなよ』
だがそんなアンに要がひるむわけも無かった。
「なんだ?上官に意見か?いい度胸だ。そして付け加えると前くらい隠せ」
それだけ言うと明らかに要の足音は遠くになって行く。続いて蹴って外れた外の扉を直している音が響いてくる。誠はとりあえずの危機を脱したと大きく深呼吸した。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 6 作家名:橋本 直