失敗ダークネス
玉座の近くで倒れていたトオルが小さくうめく。どうやら死んでいたわけではなかったらしい。驚いて駆け寄ろうとした三人を瞬間的に爆発させた炎の壁で遮って、サヤはひ弱な小動物を慈しむような目をした。
「おはよう、トオル。それともさっきから起きてたのかな」
「…っ、サ、…ヤ先、輩…?」
「ん? あ、そっか。扉開けながら攻撃したから、トオルわかってないんだ?」
「トオル先輩、早くこっちへ! サヤ先輩は…っ」
キョウコが言い終わるより早く、サヤが杖を振った。
「っ、あああああああぁぁぁっ!!!」
「トオル先輩っ」
「だめだよー。せっかく生かしておいたんだからー」
ぎしぎしとトオルを中心とした半径一メートルの空気が歪む。既に傷だらけの体に、普段ならあり得ないくらいの圧力をかけられたトオルが、そのまま引きちぎれそうな叫びをあげた。だがそれも一瞬で、やめてとノゾムが叫ぼうとした瞬間にその圧力はかき消えた。
重過ぎる力は消えたが、起き上がれないままのトオルは最低限動けない程度に押さえつけられているらしかった。喉は無事だったようで、身動きの取れないまま宰相が泣きそうな声でサヤを呼んだ。
「サヤ先輩、なんで…」
「もう、みんなさっきからそればっかり。忘れ物を取りに来たんだってば」
「忘れ物…?」
「そう」
恐る恐る反駁したトオルにサヤはまた一つすき間なく微笑む。
濁った瞳で虚空を見つめ続けるマドカの頬をひどく優しげに撫でて、彼女は笑みを消さずに静かに続けた。
「欲しい技術もフェレスもみんな手に入れて、わたしは国を出た。でも、取りこぼしがあったことにいまさら気付いちゃったんだよねえ」
「取りこぼし、?」
「うん。────この国と、マドカちゃん」
その一単語をうっとりと口にして、サヤはとろけるように笑った。
だめだ、とキョウコは口の中で呟く。
魔術は《場》に大きく左右される。学術院で魔術を学ぶ者たちは、真っ先に《場》を支配することを教えられるくらいだ。その空間に存在するあらゆる物象を素粒子レベルで掌握し、支配し操ることこそ魔術の本質だと。無生物であれば視線一つで崩れ壊れるように、生物であればその指の動きだけで生死を握れるように。自分の呼吸をすべてと同化させて、相手がそれと気付かないうちに意識を乗っ取っていく。それがまさに魔術の真髄だと。
今、この玉座の間という《場》は、間違いなくサヤに支配されていた。覚悟を持って自分を保っているキョウコはともかく、魔術に耐性のないノゾムやムツは、とっくにサヤの話術に引き込まれている。普段ならばその程度のことに気付けないはずもないトオルですら、怪我のせいかサヤから視線も外せなくなっている。
相手の手中に落ちた《場》で魔術を────ことに攻撃系の魔術を使うのは自殺行為だ。
それでもやるしかない。最低でもノゾムかムツかトオルの誰かが気付くまでは。
「だって、手に入る場所にあるんだもの。欲しくなるのは当然じゃない? フェレスだってそうやって手に入れたんだよ、わたし」
「フェレス? ────って、先輩さっきから、一体誰のことを」
「あれ、まだ紹介してなかった?」
きょとん、とサヤが首をかしげる。やめて、とキョウコがうめく。
これ以上、相手の利となる要素は増やしたくないのに。
二人は気付かずにいぶかしげな顔をしたままだった。
そんな二人を見てサヤは今まで通りの穏やかな笑みを浮かべ、二人の横で苦々しく杖を構えているキョウコを見て初めていびつにその笑顔を歪ませた。
「フェレ────ス」
玉座の右側にもたれ掛かったまま、気怠げな声でサヤがそう”何か”を呼ばう。いきなり何を言い出したのかわからずにとりあえず身構えるノゾムやムツとは反対に、その名前が持つ圧倒的なまでのまがまがしさに、キョウコは思わず背筋を凍らせた。
「メーフィースートー、フェレス────」
「今度は何ですか、センパイ」
間延びした声へかぶせるように、キョウコたちの背後から落ち着いた声が跳ね返る。とっさに振り向いた3人を追いかけるようにして、扉と向かい合うように────三人と対峙するように地に伏せて動きを封じられていたトオルが唯一許されている言葉でもってはじめて叫んだ。
「レンリ!?」
「遅いよー。呼んだらすぐ来るって言ったじゃない」
「あのね、ヒトの寝入りばなたたき起こしたあげくこき使っておいてそれはないと思うんですけど」
厳密にいえばヒトじゃないでしょ? いやまあそうですけど。
ずるり、ずるりと重量のある音を伴って『彼』は呆れ顔で答えながらのんびりと3人の横を通り過ぎていく。その腕に引きずられるままのモノを見て、ノゾムは息を呑んだ。
見えない力で押さえつけられているトオルをはじめとして、その場にいる4人は皆『彼』を知っている。必修学術院ではノゾムたちの一年先輩で、悪友のトオルと二人でいつも笑っていた。サヤが国からすべてから姿を消す直前に、仕えるべき国主を守って死んだ、はずの、『彼』。死ぬ前と変わっているのは黒づくめのスーツ姿と耳の上からはえている不自然にねじ曲がった角、それからその体にべったりと張り付いた鮮血のみ。乾いて黒ずみ始めた赤と引きずってきたモノ────ヒトを見てサヤが一言だけ窘めると、苦笑い一つ返した『彼』は瞬きの間にそれを燃やし尽くした。何処までも煮詰められた闇のような炎が血と死体とを舐めたかと思うと、次の瞬間には全てが消えている。唇の端に残った炎をぺろりと舌で絡め取った『彼』に向かって、トオルが愕然と呟いた。
「レンリ、お前、…え? うそだろ、」
「何言ってんのかよく分かんないんだけど…センパイ、何で殺さなかったの」
「フェレスもこの子も、会いたかったかなあと思って」
「その呼び方、止めて欲しいんだけどなあー」
「何で、レンリ先輩が……」
サヤの反対側、玉座で事切れているマドカを挟むようにその左側へついた『彼』が震える声でようやくそれだけ言ったキョウコを、さも今気付いたとでも言うように振り返って、見つかっちゃったからねとこともなげに言う。いわく、ヒトに擬態して生活していた悪魔はその偽りを見破られた瞬間、見破った術者のしもべにならなければならないのだと。
場の空気に全くそぐわないあっさりした答えに、からからの喉でトオルが呟いた。
「レンリ、いつの間に悪魔なんかになっちまったんだよ……?」
「馬鹿だなあトオル、知らなかったんだ?」
あざ笑うように軽やかに『彼』は笑う。
「───────おれは最初から最後まで徹頭徹尾、悪魔だったよ?」
そう言って、伝説にしか存在しないはずの悪魔の名を冠された『それ』は「レンリの顔」をしてうつくしくうつくしく笑った。
***
「────って言う、夢を見たんだよー」
屋中望はそう語る。
「何じゃそら。中二か」
千早透が呆れ顔で返す。
「のぞ、何か疲れてるんじゃないの。逃避願望的な」
祥野睦がからかっているのかどうかわからない笑顔で言う。
「違うもんあたし今超現実に満足してるし!」
「にしても、えんちゃん先輩が一番エライあたりのんの深層心理がなー」