失敗ダークネス
部屋や廊下に散らばっている死体はほとんどが人の形をとどめていることがなく、かろうじて残っていた顔は、恐怖よりもむしろ驚きに染まっている。その表情の意味する所を理解できないまま、三人は王の間がある最上階へと足を踏み入れた。
そして階段を上りきったとたんに弾けた、これまでのフロアとは比べものにならないほどのむせ返るような血の臭い。思わず顔をおさえた視界の端、濃紺のローブが静かに翻って、消えた。生存者かと見つめ直した視線の先で、玉座へと繋がる大扉が誘うように細く開いている。
ごくりと、呑み込んだ音は誰のものか。
及び腰で視線を交わしあって、わずかな音も立てないように三人一斉に足を踏み出した。足並みを揃えて、一歩ずつ王の間へと近づいていく。
細く、緩く開いた大扉。眼前にそびえる荘厳な細工にまた一つ息ごと唾を飲み込んで、そこで初めて一歩前に出たムツが扉に手をかけて二人の少女を見やる。小さいがはっきりとした頷きを見て、彼はとうとう最後の砦とも言える大扉を押し開けた。
「やっと来た。待ちくたびれちゃったよ、三人とも」
開けた扉の向こう側、押し開けた扉の足元からまっすぐ伸びる緋絨毯の脇でマドカ姫直属の近衛隊がずらりと並び、その先に鎮座ましましている玉座の左横に、ノゾムとムツのおさななじみ、三人の一年先輩で宰相でもあるトオルがたたずんでいて、シンプルながらも威厳のあるデザインのその玉座には、艶のない美しい黒髪を暇そうに片手でいじりながら至高にして最上のマドカ姫が座っている、
─────────はずだった。平素ならば。
まっすぐ伸びる緋絨毯はぼろぼろのずたずたに引き裂かれたあげく、本来とは違ったどす黒い赤に染めあげられている。
マドカ姫直属の近衛隊はことごとく広間のいたるところで骸となって哀れな死に顔を晒している。
おさななじみで先輩で宰相のトオルは、玉座のすぐ近くで倒れ伏している。
玉座はところどころうす汚れて欠け壊れ、そこに座っているマドカ姫の胸には誰が見ても絶命を見て取れる大きな風穴。もちろん、彼女の瞳に生気はない。
まるでその代わりのように、血で汚れた玉座の肘掛に腰かけている濃紺のローブをまとったその人を見て、三人は声も出せずに驚いた。
急激に乾いてひりつく喉をこじ開けて、手にはめっぱなしだったナックルを震わせながら、ノゾムがようやく呟いた。
「サ、…ヤ、先輩」
「久しぶり。大きくなったね、三人とも」
「ほんとに、サヤ先輩? うそ、なんで────」
「ノゾムッ!」
呆然自失のまま呟きながらふらりと一歩踏み出したノゾムを、ムツが思わず叫んで呼び止める。呼ばれるが早いか、その叫びに驚いてびくりと足を止めかけたノゾムを、彼女一人に対して大きすぎるほどの衝撃波が襲う。
キョウコがとっさに張り巡らせた防壁に受け止められて幾分か軽減されたものの、そのダメージはすさまじいものだった。地面に倒れ伏したまま激しく咳きこむノゾムを助けようとキョウコが防壁を解除すると、その隙を狙ってまた衝撃波が飛んでくる。術を解除したばかりの不安定な態勢でかろうじてそれを相殺させたかつての後輩を笑みに歪んだ瞳で見やり、サヤはぞんざいに抱えていた杖を握り直した。
「あれを相殺されるとは思わなかった」
「先輩、なんでこんな…!」
「────風よ」
「断絶せよ!」
絞りだすようなキョウコの声を遮るように、力ある言葉が一つ。
渦をまいて襲いかかった空気の塊を短い叫び一つでかき消して、暴風の向こうに見えるサヤへ彼女は呟いた。
「だって、先輩、姫様の一番の親友だったのに…」
「うーん、さすがキョウコ。わたしが唯一勝てなかった相手だもんね」
「負けてもいないでしょう? 結局引き分けのままだったじゃないですか!」
サヤ先輩に勝てる魔術師なんかいない、と悲痛な声で叫ぶ。
国が運営し、国の責任のもとにあらゆる教育が行われる必修学術院と呼ばれる場所。現在の国政に関わる────関わっていた者の多くを輩出したそこで、サヤは三人の二年先輩であり、数百年に一人の逸材とうたわれた天才だった。
教師ですら成功させるのは難しいとされた召喚術を入学二年目に成功させ、はるか先であるはずの学習内容を水でも飲むかのようにいともあっさりと習得していく。
キョウコも同じように逸材だとはやされたが、そんなのは単なるリップサービスでしかないことを彼女自身が痛感していた。
少女の張ったシールドの端で倒れこんでいたノゾムがじりじりと体を起こす。血でもにじんでいそうな咳の後、霞む視界でサヤを見据えた。
「サヤ、先輩…っ、が、なんで姫様を殺さなきゃいけないの…!?」
「…あれ。ごめんね、手加減しちゃったかな。痛かったでしょ、ノゾムちゃん」
ちゃんと死ねるようにすればよかったね、と笑う顔は、学術院の卒業式で見せた最後の表情とまったく変わらない。ノゾムはまた「どうして」と呟いた。
学術院には、そこに通う学生たちのために寮が存在した。
ほとんどすべての生徒が生活を共にする場所で、並外れた才能を持つ者は、その優れた成績を評価されてたいてい貴重な一人部屋を割り当てられることになっていた。しかしサヤは三年に一回の部屋替えで差し出された一人部屋を断って、たまたまルームメイトがいなくなったばかりの(文武両道に秀でることを要求する学術院では、学科過程を最後まで修めることなく脱落していくものも少なくない)ノゾムの部屋へ居を移したのだ。
家族との繋がりを絶たれる学院という場所で、誰よりも近い場所にいるのはルームメイトだ。だからこそ、”あの”サヤと同室になれたことを誇り、誰よりも喜んでいたのは他ならないノゾムだったし、サヤもそんなノゾムを誰より可愛がった。
どこから見ても仲の良いルームメイトの先輩後輩、だった。
声を出すことも、動くことすらできずにただ凍りついたノゾムを視界の端で捉えて、キョウコは恐怖とともに思った。
なのに何故、彼女は笑顔のままあんなことを言うことができる。
「…サヤ先輩……?」
「なぁに、ムツくんまでそんな変な顔して。わたしの顔に何かついてる?」
「間違いなくサヤ先輩なんですか? なんかが化けてるとか、取り憑かれてるとかじゃなくて?」
「相変わらず面白いこと言うね、ムツくんは」
そう言って笑みを隠す仕草と声音で、ムツは一人いち早く理解し、そして絶望した。
────────まごうことなくあれは、彼らが笑顔と涙でもって見送った尊敬すべき先輩なのであると。
「なんでさ、先輩…」
「忘れ物をしてたなあ、と思って」
「「は?」」
思わず聞きかえしたノゾムとムツににこりと微笑んで、手に持っていた杖を優雅な動きで一振りした。
練り上げられるだけ練り上げて術に昇華することなく放射状に放たれた魔力の波がキョウコの張っていたシールドを蹂躙し破砕し、床に転がっていた近衛隊の死体たちをごみくずか何かのように壁の方へ片づける。シールドに相殺されたおかげで無事に済んだ三人は、いまだ立ち上がることのできないノゾムを中心にただサヤを睨みつけた。