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「月傾く淡海」  第二章 海石榴市(つばいち)の少年

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 合議の間には、いかに大豪族といえども、供人を連れて入ることを許されない。長い緊張から解き放たれた香々瀬は、心安い族の供部の元へ早く戻ろうと、短い階(きざはし)に足をかけた。
「--お待ちを、葛城の首長どの」
 そのとき不意に、香々瀬の背に向かって声をかけた者があった。
 香々瀬は、階に立ったまま振り返る。
「これは……大伴の大連(おおむらじ)どの」
 香々瀬の背後に立っていたのは、大連・大伴金村(おおとものかなむら)だった。
 大伴氏は、古くから大和朝廷に仕えてきた名門氏族である。「連(むらじ)」とは、武門を統括する官の役職で、「大連」はその頂点を指す。即ち、朝廷内でかなりの実力を持つ、首座の重臣の一人だった。
「……何か私にご用でも?」
 香々瀬は警戒しながら口を開いた。
 もう四十に近い金村は、その生涯の殆どを乱と戦に費やしてきた男だった。彼の関わってきた争いには、必然なくして起こったものも多いと聞く。
 これまで直接話した事は殆どなかったが、香々瀬は金村に対し、あまりよい印象を抱いてはいなかった。
「はは、そう邪険にされるものではない。別に、とって喰おうとしているわけではござらんよ」
 金村は朗らかに笑った。
 金村は上背も高く、がっしりとした体躯で、いかにも武人らしい剛毅な面立ちをしている。しかも彼の態度には、長い間朝廷の荒波を潜り抜けてきた者独特の、自信と余裕が備わっていた。
「ところで、今日はお一人で来られたのかな? 姉姫はご一緒では?」
 自分より遥かに年下の香々瀬に対し、金村は慇懃な口調を崩さずに問いかける。
 そんな彼の態度が逆に気に触り、香々瀬は露骨に仏頂面になった。
「葛城の首長はこの私です。姉が今日この宮に来る理由などありますまい」
 香々瀬は渋面のまま言い返した。彼の眼に、苛立ったような光が浮かぶ。
「おや、これは失礼。いや、そういう意味ではござらぬよ。この宮にも美しいものがありますのでな。お目にかけるのなら、姫がご一緒のほうがよろしいかと思ったのだが。いやしかし、清らなるものを愛ずるのに、姫も王も関係あるまい」
 金村は豪放に笑った。
「--美しいもの?」
「ご覧になられるかな? よろしければ、こちらへ」
 そう言うと、金村は香々瀬の返事も聞かずに回廊を歩き始めた。
 勝手な金村のふるまいに、香々瀬はしばし気を害して憮然としていたが、やがて不承不承といったていで彼の後についていった。
「……香々瀬王どのは、この列城宮に来られて、どのくらいになられるかな」
 前を向いて歩いたまま、金村が聞いた。
「先年母が亡くなった頃からですゆえ……まだ、数えるほどでしょう」
「ああ、先の女首長どのか……いや、あの方は、なかなか手強い御方でしたな」
 懐かしむように言いながら、金村は苦笑する。
「列城宮以外の大王の宮へ行かれたことは?」
「……ございません。首長を継ぐまでは、あまり葛城の外へ出ることも少なかったので……」
 金村の背を追って答えながら、香々瀬は姉の倭文を思い出した。
 本当に、あらゆる点で、姉と自分は正反対だ。
 幼い頃から、姉は御館の中にいたほうが少ないくらいで、気がつくといつもどこかを一人でほっつき歩いている、風変わりな姫だった。
 母たちも、口でこそそんな姉の素行を叱ってはいたが、心の中では姉のことを信頼している様子だった。
 そして族人の姉に対する尊信を見せつけられるたび、香々瀬は無言の内に責め立てられているような気持ちになったのだ。
 一人では何もできない、迂愚な王子よ、と……。
「--大王は新しく即位するたび、いや時には在位中であっても、しばしば新しく宮を造営したがったものです。なかでも、最も豪壮な宮殿を築いたのは、泊瀬の大王だったと言われているが……」
 回廊の曲がりで金村は立ち止まり、振り返って香々瀬が追いつくのを待った。
「この列城宮は、歴代の中でも、むしろ索漠とした造りのほうですな。若雀の大王が、あまり雅趣に興味を持たれない方だったからでしょうが……」
「そうかもしれませんね」 
 香々瀬はあたりを見回しながら呟いた。
 大王崩御以降、人気も減って閑寂としてきたこの宮は、どうも落ち着かない。生まれ育った葛城の御館の方が、よほど壮麗で活気もあるというものだ。
「……しかし、そんな中でも、宮人は少しでも華やかさを持たせようと努力している。……そら、首長どの。ご覧なさい」
 奥庭に沿った回廊を進んでいた金村は足を止め、庭の一角を指さした。
「あれは……」
 大半が宮の影に覆われている中、わずかに陽のあたっている場所に、香々瀬は眼を凝らす。
 そこには、紫花の群生があった。
「桔梗ですよ。采女が、庭造りに命じて植えさせたものです。ちょうど盛りを迎えていましてな。……さして珍しいものではありませんが、こうした宮の一角にひっそりと咲いているのを見ると、不思議と心休まるものではありませんか?」
「……確かに。可憐ですな」
 小さく花弁を広げた桔梗を見ながら、香々瀬は呟いた。
「われわれは、ただこうして愛でるだけですが。韓国(からくに)では、あれを食するそうですよ」
「あの花を……食べるのですか?」
 香々瀬は少し驚きながら言った。
「半島から渡ってきた者によれば、咳止めに効果があるとか。--いや、試してみたいとは思いませんがな」
 金村は磊落に笑った。
 どう答えてよいものか分からず、香々瀬は黙って彼の笑いが収まるのを待つ。
「……いや、それにしても、首長どの」
 笑声を止めると、金村は急に平板な声で香々瀬に言った。
「今日の合議も無益でしたなあ。まったく、いたずらに時を重ねただけ……いや、今日だけではない。これまでも、これからも。何度ことをはかろうとも、あの場で真実など出てきはしませんよ」
「--大連どの?」
 急に蕩々と語り始めた金村の姿に不穏なものを感じ、香々瀬は小声で聞き返した。
「……首長どのは、若雀の大王を弑逆した者が誰か、ご存じですかな?」
「--っ、それが判れば、連日の合議など……! それに、罪人の行方は、今必死に物部の大連どのが調べておられる最中で……っ」
「……鮪(しび)ですよ」
 金村は、低く、凄味のきいた声で言った。
「もしくは、その残党といったところでしょうな」
「鮪……!?」
 香々瀬は、驚愕しながら慌てて辺りを見回した。
 自分は、今、とんでもないことを聞かされている。
 万一にも、これが周囲に漏れたら大変な事になのではないか--。
 しかし偶然か、それとも金村の意図によるものなのか、そこには二人以外、人の姿はなかった。
「鮪、とは……?」
「ああ、首長どのはまだ幼かったから、ご存じではないでしょうなあ。昔、若雀の大王がまだ日継の皇子であられたころ、物部の影媛(かげひめ)という方を娶ろうとされたことがあったのですよ。しかし、影媛はすでに、当時の大臣(おおみ)であった平群真鳥(へぐりのまとり)の息子、鮪と恋仲でしてね……」
 金村は、思い出を懐かしむように遠い目をしながら、その口元に嘲笑を浮かべた。