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「月傾く淡海」  第二章 海石榴市(つばいち)の少年

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「当時の平群の大臣の威勢は、群を抜くものでした。影では、大臣自ら大王位を狙っているのではないかと、噂するものもあったくらいでね。まあ、今となっては真偽のほどはわかりませんが……。大伴もそうですが、あの頃古い豪族の殆どは、平群に対して反発を抱いていたものでしたよ。--そういう、父親の威光を嵩にきたのでしょう。影媛を争って、鮪は皇子に無礼を働きました。それは、いろいろとね……」
 何がおかしいのか、金村は喉の奥でククッと声を漏らした。
「皇子はたいそう我慢をされたものでしたが、やがて限界がきました。当時私は皇子にとても信頼されていたのでね。皇子は、私のところにどうするべきか、相談にいらしたのです。私は即座に申し上げましたよ、『そんな不敬の輩は、斬っておしまいなさい』と……」
 その時金村の瞳に浮かんだ不穏な光を見て、香々瀬はうっすらと戦慄を感じた。
「私は数千の兵をあげ、逃げ路を塞ぎ、鮪を奈良山に追いつめて討ち取りました。なんと、影媛はこの乱の折、果敢にも追ってきて、恋人が殺されるまでの一部始終を見たそうです。その後、媛は悲嘆にくれ、こんな詠を歌ったとか……」
 言うと、金村は、夕日の沈みかける紅の大和の空へ向かって朗々と歌い上げた。

 石の上 布留を過ぎて こも枕 高橋過ぎ 物多に
 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ
 玉けには 飯さえ盛り 玉もいに 水さえ盛り
 泣きそほちゆくも 影媛あはれ

「……影媛は、そのまま泣きぬれて亡くなったそうです。愛息を討たれた平群大臣は、とうとう叛逆の兵をあげる準備を整え始めた……という、噂が流れました」
「――噂?」
「ええ、証拠などありませんでした。……逆に言えば、証拠などいくらでも作れたのですよ。平郡は、専横が過ぎました。誰も彼に味方しようというものはなかったのです。そうなると、権力者など、哀れなものでね」
 金村は冷ややかに言った。
「私は皇子に申し上げましたよ。『平群をお討ちなさい』とね。皇子は私に将軍をお命じになりました。私は兵を率い、大臣の館を取り囲み、火を放って焼き払いました。鮪の科は一族に及び、全ては根絶やしにされました。……そのはず、でした」
 金村は、憂うように、ゆっくりと告げた。
「しかし、最近、さる筋から妙な情報を掴みました。鮪は生きている……そして、若雀の大王に恨みを晴らしたのだと、ね」
「しかし、もしそれが事実なら、一連の乱で皇子の将軍を預かったあなたの、重大な失態では……!?」
 香々瀬は混乱しながら、悲鳴のような声をあげた。
 これは、尋常な話ではない。
 朝廷にとっての一大事――いやそれ以前に、金村にとってはその進退を、もしくは自身の命運さえも傾けるような秘事だ。
 それを何故、自分などにあけすけに語るのか!?
「平群が没落した後、長く日継でいらした皇子は、正式に大王に即位なさいました。――この、列城の宮でね。それまで「連」であった私は、この武功により大王から「大連」を拝命いたしました。……長い間、物部に独占されていた大連の位をね。やっと私の代で、わかつことが出来たのですよ。これは、長い間の一族の悲願でしたからな……」
「――それで……!?」
 香々瀬は顔を引きつらせた。
 いったい金村は、この自分に何を言おうとしているのか。
「滅んだ平郡に代わり、空位となった「大臣」の座についた者……それが誰か、香々瀬王どのには、おわかりかな?」
「それは……まさか……」
 香々瀬は喘ぐように呟いた。
 背中を冷たい汗が流れ落ちる。
「先の葛城の女首長どの……そう、香々瀬王どのの、母君ですよ」
「――!!」
 香々瀬は、胸の奥を鋭い刃物で切りつけられたような衝撃を受けた。
 長く、大和の政治の中枢にあった母。
 あらゆる政に無関係ではいなかったであろう母が、金村の語った策謀の裏にいたと……そういうのか?
 大王と大臣と大連の座を掴むために、皇子と葛城と金村が、密かに手を組んでいたと!?
 愕然と立ち尽くす香々瀬の姿を見下ろして、金村は慰めるような笑みを浮かべた。
「我らはみな旧い豪族ゆえ……これまでに、様々なしがらみを背負っておる。香々瀬どのは、歴史ある葛城一族の首長。けして、この責から逃れることはできませんぞ……?」
 金村の言葉は、香々瀬の頭に重く呪詛のように響き渡った。
(これが……これが、旧き大豪族を背負うということなのか?)
これまでの一族の歴史全てを――清濁問わず、その全てを引き受けねばならないと? その責任が、首長である自分にはあるのだと……。
 不意に、香々瀬はこの場から走り出したくなった。
 こんな恐ろしい話からは逃げ出して、何もかも放り出してしまいたい。
 ――しかし、そんな香々瀬の心を見透かしたかのように、金村は両手でがっしりと香々瀬の肩を掴んだ。
「汝(いまし)は……私に何を……?」
「そう恐れることはない、首長どの」
 金村は、まるで頼もしい父であるかのように、香々瀬に向かって笑いかけた。
「鮪の件は、我らが引き受けよう。もともと、我らの身から出た錆ゆえな。首長どのは、新たな大王を立てることに、力を尽くしていただきたい。……先の女首長どのが、若雀の大王をお立てして、大臣の位についたように。首長どのも、新たな大王と共に、空位になっておる大臣の座につかれよ。それが、葛城の役目ですぞ……?」
「葛城の……役目……」
 力なく呟く香々瀬の肩を叩きながら、金村は心の奥で満足気に嗤った。
(噂通りの小者だ……思った以上に、御しやすい)
 金村の眼前に立つ少年は、大豪族の首長とは思えぬ儚さだった。
 確か十六になるということだが、そうは見えぬほどに華奢で幼い。
 綺麗な角髪には櫛を挿し、上質の絹のそこここを珠で飾っていたが、それらはまるで、主の少年を押しつぶす錘であるかのように、金村には見えた。
 この若い首長は、臆病で弱い。
 色白で柔和な面立ちをしているのだから、いっそ少女に生まれていればまだ救われたのに、と金村は哀れんだ。
(――姉姫のほうは、何を考えているのか分からず、得体のしれない不気味なところがあったがな。もし姉が首長についていたら、母親の時以上に手強いことになっただろうよ……)
 しかし、もう遅い。
 葛城は、最大の過ちを犯したのだ。
(まったく、こんなのが首長で、葛城も気の毒に……最も、俺にとっては幸いだったが)
 金村はほくそ笑む。
 こんな少年を操るのなど、彼にしてみれば、わが子を扱うよりもたやすいことだった。
「それで……私にどうしろと?」
 案の定、香々瀬はすがるように金村を見上げてきた。
 心得たとばかりに金村は、香々瀬の耳に用意してあった情報を吹き込む。
「丹羽の国の桑田という所に、橘王(たちばなのおおきみ)という方がおられるそうです」
「――橘王?」
 香々瀬は怪訝そうに聞き返す。これまで、一度も耳にしたことのない名の王族だった。
「第十四代『足仲彦(たらしなかつひこ)の大王』の、五世孫に当たられる方だそうですよ。性なさけ深く、風格のある御方とか。……まずは、訪ねてお会いになってみてはいかがかな?」