「月傾く淡海」 第二章 海石榴市(つばいち)の少年
不意に倭文は思いだし、少年に向かって言った。
「君の言ってることが真実かどうか、確かめる方法が一つだけあるけど。やってみる? それで君が本当に葛城の一族だったら、命は助けてあげる」
「……違ったら?」
「盗人、騙り。二重の罪ね。この場で斬り殺すわ」
倭文は平然と告げた。
まだ律令の法が整備されるにもほど遠いこの頃、都の外で罪を犯せば、そんなふうに簡単に処断されても文句を言えなかったのだ。
「盟神探湯(くがたち)っていうのよ。煮えたぎった湯の中に石を入れて、それを素手で取り出すの。もし君が真実なら、火傷も何もしないはずよ。やるなら準備するけど。--どう? 試す勇気ある?」
問いかけながら、倭文は少年の様子を注意深く観察した。
少年は一瞬怯んだように体をすくめ、瞳を周囲におどらせる。しかし、倭文に切り殺された兄貴分たちの死体が目に入ると、彼女に挑むような視線を向けた。
「--いいさ。やるよ! 俺は、嘘なんかついてないんだから!」
「へえ……」
倭文は少年の威勢に感嘆した。
(……つまり、少なくとも、自分で『嘘をついている』とは思ってないわけね)
意外にも、少年のその一言と迷いのない瞳が、倭文の彼に対する印象を変えさせてしまった。
「早くやれよ! 俺は、恐くなんかないんだからな!」
少年は必死に虚勢を張っているのだが、彼のその姿は、どこかいじらしくも感じられる。
(……ああ、駄目だ。私やっぱり『姉』なんだよなあ……)
倭文は心の内で苦笑した。
適わないくせに反発してくる幼い者を、どうしても無下にはできない。
その姿は、常に倭文の後を追ってきた、あの生意気で出来の悪い弟に重なってしまうから。
「……いいわ、君が葛城の一族かもしれないことを、信じましょう」
「--へ!?」
いきがっていた少年は、きょとんと目を丸くした。
「まだ……何も、やってないのに?」
「盟神探湯の裁きっていうのはね……行なう前に決するのよ」
「やる前に、でる?」
意味が分からず、狼狽したように少年は聞き返す。
倭文は彼のその姿を、微笑ましく感じた。
(……ああ、かわいいなあ。やっぱり子供ね)
ついからかいたくなってしまう自分を押さえながら、倭文は少年に教える。
「嘘をついている者は、心に疚しさがあるから、それがどこかしら態度に出るものだわ。盟神探湯は、それを見極める旧い裁きよ。実際に煮え湯の中に手を突っ込まさせるわけじゃないわ」
「……なんだ、もう……。脅かすなよ。俺てっきり、本当にやるもんだとばかり……」
ほっとした少年は安心して肩を落とし、地面に手をついた。
「……じゃあ、あんた、信じてくれるんだな。俺のこと……」
倭文を見上げた少年の目に、今までとは違う色が浮かんだ。彼の中に、倭文に対する、これまでにはない信頼が生まれ始めている。
「今まで、誰も俺の言うことなんて、まともに相手してくれなかったのに……兄貴たちだって……」
「まあ、ね……」
倭文は腰に手をあてて呟く。
どのみち、いつか一言主に会わせる事ができれば、真実ははっきりするだろう、と思った。
「それにしても、なんでこんな商いをしてたの? 望んでやってたわけじゃないんでしょ」「まさか! うまくやらないと殴られるから、言うこときいてただけさ」
吐き捨てるように言い、少年は周囲の死体を一瞥した。
「……母ちゃんが死んだ後、俺は何度も人買いに売られた。ひどい仕事ばっかりやらされて、満足にできないとまた売られた。--最後に俺を買ったのが、この兄貴たちだったってわけさ」
「……そう。それで、これからどうするつもり?」
「さあ。俺はまだガキだからな……またどっかに買われるか、奴卑に戻るかだろうな」
「……え?」
少年の返事を聞いて、倭文は愕然となった。
折角彼を縛り付けていた男たちがいなくなったというのに……この少年の頭には、始めから「自由に生きていく」という発想が無いのだ。
それが、彼の抱えた現実なのか--そう思った時、倭文の口を自分でも思わぬ言葉がついて出た。
「--わかった。じゃあ、私が君を買おう」
「……あんたが?」
少年は、驚いたように顔を上げた。
「なんでさ、急に」
少年は訝りながら、突き刺さるような視線を倭文に向ける。
「私が今、そう思ったから」
倭文は、事実だけを率直に答えた。
明確な理由など、自分自身にも分からない。
けれど、そうしたいと思ったのだ。――他ならぬ、この自分が。
「……いっとくけど、俺は、そんなに安くないよ」
少年は強がってみせる。
「--これでどう?」
倭文は、上衣の下につけていた「珠の御統(たまのみすまる)」を首から外し、少年に渡した。
白糸をよった緒で作られた御統には、磨き抜かれた翡翠の勾玉が十五個も連ねられている。
「これ……これ、こんな高いもの……?」
御統を受け取った少年は、面食らって上擦った声をあげた。
裏稼業の為とはいえ、長い間海石榴市で店を出していたのである。
この御統がどれくらい価値のあるものか、さすがの少年にもおおよその察しはついた。
「この勾玉一つで、立派な館が建てられるんじゃないの……?」
「まあ、人一人の値段にしては、安いほうかしら? でも今は旅の途中だから、あまり持合せがないのよ。それで手を打たない?」
「あんた、本当に世間知らずだね……。俺が兄貴たちに売られた時は、栗一袋と引き換えだったよ。……なんか、このまま一人で旅させるの心配だなあ」
「私の腕は見た通りだけど」
「いや、そういうんじゃなくて。絶対途中で変な奴に騙されそう……よし、わかった。あんたについていく!」
覚悟を決めると、少年は初めて倭文に朗らかな笑顔を見せた。
「じゃ、決まりね。--君、名前は? あるんでしょ」
「俺は……稲目(いなめ)。宗我の稲目。あんたは?」
「私は、葛城の倭文。--葛城一族の首長、香々瀬王の姉よ」
そう言いながら、倭文はふと自分で「嫌な名乗り方だ」と思った。
「誰かの何か」だなんて。付属物であることだけが、己の価値であるかのようではないか。
かといって、「葛城の女首長」と名乗る機会を蹴ったのは、他でもない自分なのだが……。
「葛城!? あんたが、葛城の人なの? しかも、首長の姉って……じゃあ、あんた、葛城のお姫様!?」
「まあ、そういうことね。--ところで稲目、この辺の土地には詳しい?」
「え? ああ、そりゃ……ずっとこの界隈で売り買いされながら育ったから」
「そう。じゃ、ちょうど良かった」
そういうと、倭文は驚いたままの稲目に向かって軽く笑った。
「私--実は、方向音痴なのよ。ちょっとこの先不安だったの」
大和領内。泊瀬の列城宮。
宮殿(みやどの)の奥から、長い合議を終えた各豪族の長たちが、三々五々に退出しようとしていた。
合議は、早朝から始まって、日が傾く頃まで続けられた。途中何度か食事などの休憩を挟んだとはいえ、これほどの長さで続けられるのは、滅多にあるものではない。
香々瀬は、ほっと息をつきながら、一人で回廊を歩いていた。居並んだ首長の中では最も若い王の一人だったが、その分老獪な先達たちに囲まれた心労は並のものではなかった。
作品名:「月傾く淡海」 第二章 海石榴市(つばいち)の少年 作家名:さくら