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「月傾く淡海」  第二章 海石榴市(つばいち)の少年

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 少年はすばやく男達の後ろに隠れ、媚びるような声を出す。
「ふうん、こりゃ……どっかの族の郎女(いらつめ)ってとこだな。おいガキ、よくやったな。今までで一番の上玉だぞ」
 頭目らしき男は、卑しい目つきで倭文の全身を眺めながら呟いた。
「おい、女。死にたくなければ、身につけてるもの、全部ここにおいてきな」
 男達は倭文を取り囲み、得物をかざして凄む。
「……まあ、こんなことだろうと思ったけどね」
 あまりにも予想通りの展開に、やや辟易して倭文はため息をついた。
「--ああ? 何だって?」
 男が眉を顰める。
 ――次の瞬間、倭文は無言で地を蹴った。
 襲の下に帯びていた平剣に手を当て、一瞬で抜き払う。
 白色の襲がはためき、長い刀身が陽光を反射して鋭く煌めいた。
 倭文は、踊るように舞った。--少なくとも、少年の目には、そう見えた。
 しかし、倭文が鮮やかに着地したとき、彼女の回りにいた三人の男達は、全員胴から血を噴き出して地に倒れていた。
「……まったく。面倒くさい」
 呟きながら、倭文は軽く平剣を払う。刀身を流れる赤い血が、無数の粒となって空に散った。
「な、なな、なんだよ、お前……」
 一人取り残された少年は、腰を抜かして唇を震わせた。
 眼前で行なわれたのは、彼がこれまで何度も見てきたのとは、まったく違う光景だった。
 いかにも育ちのよさそうな郎女が、剣を振り回して少年の兄貴分達を一蹴してしまうなどと……いったい誰が想像しようか?
「……どうやら、襲の下の『これ』は見えなかったみたいね」
 平剣を持ったまま、倭文は少年に近づいた。
 この「腕」を持っているから、倭文は女一人で平気で旅が出来るのである。
 元々体力と反射神経には優れていたが、倭文がここまでの剣の達人になれたのは、よくも悪くも一言主のおかげだった。
 幼い頃あやまった好奇心から、今では王族でさえも立ち入らない葛城山に踏み込んだ倭文は、そのころには伝説となっていた一言主に出会い、その後十年以上に渡って「ひまつぶし」の相手をさせられた。
 つまり、否応なく剣と武術を仕込まれたのである。
 倭文の実感としては、一言主は「守護神」というより、むしろ「師」にあたる。
 無論相手は『神』であるから、今まで一度も剣で勝てたことはないが、倭文は人間が相手なら、この世の誰であっても負ける気はしなかった。

「……なんでこんなことしてるわけ? そりゃ、子供が一人で生きていくのは大変だろうけど、盗人の手下に成り下がるより、ましな方法がいくらでもあったんじゃないの?」
「--お前みたいな、苦労知らずのお嬢様にわかるもんかよ!!」
 座り込んだまま、少年は倭文を見上げて睨め付けた。
「決めつけてくれるわね。苦労してないって、君に何故わかる?」
 断定的な少年の口調に、倭文は少し気分を害した。
「喰うのに困ったことなんてないくせに! そんなの、見ればわかるさ!」
「たとえそうだったとしても。矜持を失って、薄汚い生き方をするような者に、何も言われることはないわね」
「……『薄汚い』、だと!?」
 倭文が冷淡に言い放った途端、少年は双眸に剣呑な光を浮かべた。
「馬鹿にするな! そりゃ俺は、今は父ちゃんも母ちゃんも死んじまってこんなことやってるけど、これでも誇り高い葛城一族の血を引いてるんだからな!!」
 瞳を滾らせながら、少年は大声で叫ぶ。
「……葛城?」
 思いもかけぬ言葉を聞き、倭文は反射的にそれを反芻した。
 右手を上げると、少年の鼻先に向けて、平剣の切っ先を翳す。
「言っておくけど、軽々しく騙っていいような名じゃないわよ、それは……」
 倭文は厳しい表情で少年に告げる。
「う、嘘じゃない! 母ちゃんが、死ぬ前に言ったんだ。俺達は、葛城一族の末裔だって……」
 倭文の気迫に気圧された少年は、幼い顔をひきつらせながらも、必死に反駁を試みた。
「俺達の御先(みおや)は、昔は金剛山の麓に里を持ってたんだ。だけど、何十年か前の戦で、里は滅ぼされて、一族は散り散りになった。何とか生き残った連中は、宗我まで逃げ延びて、そこに住み着いた。俺達はそこで素性を隠して、奴卑として働いてきたけど、どんどん数も減っていって、とうとう俺の一家だけになっちまったんだ……」
 急き込むように話していた少年は、突如倭文の前で無防備に顔を歪めた。
「俺が五歳の時、父ちゃんは誰か偉い奴の、でかい墓造りにかりだされて、そこで大石崩れに巻き込まれて死んじまった。……母ちゃんは、その後いっぱい無理をして、すぐに病になっちまった。でも母ちゃんは、言ったんだ。今はこんな土蜘蛛みたいな暮らしをしてるけど、俺達は、誇り高い葛城一族の血を引く者だから。それを絶対忘れるなって……」
 喋っているうちに感極まったのか、少年はついに黒瞳から涙を溢れさせた。
「……」
 倭文は少年を見下ろしたまま、手に持った平剣を下ろす。
 ――どういうことだろう、これは。
 金剛山は、葛城山のすぐ南に位置する山だ。二つの山は、かつて「双子山」とも呼ばれ、それぞれの麓に元を同じくする葛城の一族が住んでいた。
 北の葛城山には、倭文たち「葦田葛城氏」が。そして、南の金剛山には、「目弱王の乱」で泊瀬の大王に滅ぼされた、「玉田葛城氏が……。
 少年の言う、『何十年か前の戦』とは、「目弱王の乱」のことだろうか。それを逃げ延びた族人の一部が、宗我(そが)に土着したと?
 宗我は、耳成山の西に位置する土地だ。場所的にいって、無理のある話ではない。
 しかし……。
「君が葛城の血を引くと、証できるものはあるの?」
「……そんなものない。でも、母ちゃんは嘘をつかない。--俺も、つかない」
 目を涙で濡らしながらも、少年は毅然とした口調で言った。
「さて、ね……」
 倭文は困惑して呟いた。
 自分がもし巫女姫として生まれていたら、こういうとき真実が見抜けたりしたのだろうか。
 氏族にとって、己が系譜は最も重要なものだ。
 しかしそれ故に、自らの血統を高貴なものと偽る者は後を絶たない。
 日々の生活に困窮する奴卑が、自分たちは実は名門豪族の末裔なのだと、せめても夢見るのは、ありえないことではないだろう。
 いちいちそんな世迷いごとを相手にしていては、らちがあかない。
 --けれど、もし、『真実だったら』?
 玉田葛城氏を--葛城襲津彦を祖とする、眷属の半分を救えなかったことは、未だに一族の負い目となっている。
 まして、倭文は王族だ。いくら何十年も前の、生まれる以前のこととはいえ、自分にもその責はある。
 その時倭文はふと、一言主の託宣を思い出した。
(失われたはずの、もう一つの葛城の血が顕れた……これが、私の『求めるもの』……?)
 --いや。
 倭文は、すぐに自分の考えを打ち消した。
 ここは、淡海ではない。
 一言主は、倭文の求めるものは淡海にある、言った。
(……だけど、これもまた、探しているものの一部なのかもしれない……)
 迷いながら倭文は頭を振った。
 逡巡ばかりが続き、結論なんて出やしない。
 つくづく、族長なんてやらなくてよかった、と思った。
(……ああ、そういえば。こういう時、真偽を定める旧い方法があったなあ)