小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

「月傾く淡海」  第二章 海石榴市(つばいち)の少年

INDEX|1ページ/6ページ|

次のページ
 
「淡海へ行け」という託宣を葛城一言主に下された倭文は、一晩で心を決めた。
 ぐすぐすしていても、始まらない。恐らくあの神は、何らかの意図をもって倭文を試そうとしているのだ。
 近江へ向けて旅立つ決意をした倭文は、次の日の早朝、一人で葛城の里を立った。
 何も言わずに姿を消すと騒ぎになるので、ごく親しい近習の者に「しばらく旅に出る」とだけ言付けた。無論彼らは慌てたが、倭文は昔から王族の姫に似合わず一人でどこかをふらふらとしていることが多かったので、さして強く止めることも出来なかった。
 
 倭文はまず、東へ向かって飛鳥を抜けた。
 三輪山の麓まで出れば、そこからは北の山背国へ向かって山の辺の道が続いている。この道は大和と他の地域を結ぶ最大の要所であり、周辺を行き来する旅人の多くがこの道を利用していた。
 飛鳥で一晩過ごし、山の辺の道の起点である「八十(やそ)のちまた」に入った時、陽はちょうど中天にさしかかっていた。
 この「八十のちまた」では、日によって大和最大の市「海石榴市(つばいち)」が立つ。
 どうやら今日はその日に当たっていたようで、道のそこここに人々が店を広げ、それを物色する旅人などで辺りは大変な賑わいだった。
「どうだい、入ったばかりの鮑の干物だよ!」
 ちまたの目立つ場所で、真っ黒に日焼けした男がことさらに大声を上げている。
 広げたむしろの上には沢山の土器が並べられ、それぞれにウニ、鮫、鮑、若布などの魚介類の干物や塩漬けが溢れんばかりに盛られていた。
 山に囲まれた大和には、海がない。こうした海産物は、熊野灘などから保存用に加工されて運ばれて来るものばかりであったが、それでも相応の貴重品であり、常ならば身分の高い者の口にしか入らない。
 その品々が、こうしてふんだんに商われているのを見るだけでも、この海石榴市の豊かさ、規模の大きさがわかるようだった。
「……こっちはとれたばかりの早米だよ! 赤も黒もあるさ!」
 向かいの老婆が負けじと声を上げる。かなりの老齢であるのに、それを感じさせないほどの威勢のよさだ。
 ここにいる者は、商い主も客も、みな活気に溢れていた。人々は生気に満ち、喧噪さえも楽しい。
 ここで生活の糧を得ている人々には、「大王崩御」など、何の関係もないことなのだろう。
 倭文は市を見るのは初めてだったので、興味を引かれるまま、あちらこちらと足を運んだ。
 とれたての野菜や茸、果物などの食料品はともかく、土器や下駄、衣や櫛など、ここで扱っていないものはないくらいだ。
 倭文は若い娘なので、やはり衣や帯などの華やかな品に目を引かれる。
 装飾品を扱った通りを物色して歩くうち、倭文はふと、ある店の前で足を止めた。
 その筵の上には、色とりどりの真新しい糸束が並べられている。浅黄、紅、紫紺など、目にも鮮やかな色に染められた糸は明らかに高級な品で、こんな道端に置かれているのは不釣合だった。
「……お姉さん、目が高いね」
 一人で店番をしていた少年が、倭文に声をかけた。
「ここだけの話だけどさ。これ、新羅から入ってきた特別品なんだ。このまま見過ごしたら、お姉さん一生の損になるよ」
 倭文は少年に目をやる。
 まだ、十歳くらいの幼い男の子だ。それなのに、妙に世慣れた喋りかたをする。それが倭文のかんに触った。
「……君、ひとり? 他に大人の人はいないの?」
「いないよ。俺は、一人で商いをやってんだ。ここは俺の店だぜ」
 少年は、少しむっとしたように言い返した。
 確かにこの頃、戦乱や飢えで親を亡くした孤児は都の外に多かった。彼らは、幼いころから生きる術を自分で身に付けていくのが常だ。
(それにしても……)
 倭文は少年の姿を凝視した。
 彼は、あまり豊かではないのだろう。袴も履かず、素足にごく簡素な膝上までの衣を着ていた。伸びた黒髪は、角髪を結うこともなく、無造作に一つに束ねただけである。
 奴卑とまではいかなくとも、明らかに下層の者だ。それが、こんな高級な品を扱えるものだろうか?
「……お姉さん、いい身なりをしてるね。もしかして、身分の高い人?」
「--そう見える?」
 倭文は警戒しながら答えた。
 旅に出るにあたって、倭文は持っている装束の中で、最も地味なものを選んできていた。
 男装も試してはみた。しかし、自分は体の線が細いわりに背が高いので、どうも青年にも少年にも見えず、かえって怪しくなるだけだった。
 仕方がないので、とりあえず無地の青衣の裳をつけ、その上に旅用の襲(おすい)を羽織ることにしたのだ。
「うん、すごく品が良さそう。それに、美人だよ」
「さすが、お世辞がうまいわね」
「ほんとだって。俺も、商売柄色んな女の人見てきたけど……お姉さんは、なんていうかな、ただ綺麗なだけじゃなくて、うーんと、なんか特別な雰囲気があるんだ」
「……へえ」
 倭文は少し感心しながら呟いた。
 意外と、この少年は鋭いのかもしれない。
 全体に色素が薄く、線の細いつくりの割に、瞳だけに強烈な意志を感じさせる倭文の面は、葛城の生粋の純血の--言い換えれば、葛城王族の特徴だった。
 確かに一種独特の危うい雰囲気であり、誉められることもあったが、倭文は自分の造作をそれほど気に入っているわけでもなかった。
 何故なら、この容貌は「倭文自身」ではなく、「葛城そのもの」を表わしているに過ぎない。
 ただ葛城の血を引いたから、この姿で生まれてきただけ。その証拠に、一つ下の弟の香々瀬も、やはり倭文とそっくり同じ顔なのである。
「やっぱりお姉さんみたいな人にはさ、特別な品が似合うよ。……ここにあるのも、いいやつなんだけど」
 少年は声を落とし、小声で倭文に囁きかけた。
「この裏にね、気に入った上客にしか見せないとっておきが隠してあるんだ。……お姉さん、見せてあげるよ」
「……」
 あからさまに怪しい、と倭文は思った。
 よく見れば賢そうな顔立ちをしているのに、こんな手に相手がひっかかると思っているところが、まだ子供だ。
 別に無視して立ち去っても良かった。
 そもそも、市に糸を買いにきたわけではないのだし。
 ただ--。
 倭文の中で、何かが引っかかっていた。誘いかける少年の目つきが、妙に必死だったからかもしれない。
 説明できない何かが、倭文をこの場から離れさせないでいた。
「……じゃあ、見せてもらおうかしら」
「--わかった、ついてきてよ!」
 嬉しそうに笑うと、少年は顔馴染みらしい隣の店主に店番を頼み、倭文を伴って歩き始めた。
 
 少年は早足で表通りを抜け、入り組んだ裏道へと入る。
 いったいどこへ行こうというのか。人通りはどんどん少なくなり、やがてまったく人気のない川辺へ出た。
「……こんなところに、『とっておき』があるわけ?」
 そんなわけないだろう、と思いながら倭文は尋ねた。
 少年は答えず、立ち止まる。
 不意に彼は両手を上げると、掌を打ちながら大声を上げた。
「--つれてきたよ!」
 その声を合図にして、突然、草むらから三人の男達が現れた。
 いずれも屈強で、手に得物を持った、人相の悪い連中だ。
「世間知らずのお嬢様だ。多分、お忍びの旅の途中ってとこじゃないのかな」