子守
何の花だろう? とても強い、でも魅惑的な香りだった。これだけ強いのに、今まで気付かなかったのも、不思議だ。
周りを見渡すが、この香りの主は見つからない。
何の花だったっけ。秋に咲く花でないのは何となく分かるけど……。
――眠れ
不意を衝かれた。
そうとしか言いようがない。
僕は、その言葉に従うように、倒れこんだ。
イーゼルに頭をぶつけて目を覚ます事も無かったので、多分後ろに倒れたのだと思う。
○●○ ●○● ○●○
――眠れ
僕は、まるで眠りと目覚めの間のような、おぼろげな心地よさに包まれていた。
――眠れ
――我が根は枕
――我が葉は褥
子守唄のようだ……。誰の声だろう? 聞いた記憶の無い、優しげな女性の声。
僕はゆっくり目を開けてみた。声の主が、知りたかった。後で考えれば、夢から目覚める夢などという、おかしな事だった。だが、この夢はあまりにリアルで、これが夢だとは思ってもいなかったのだ。
目を開けると、「姫水谷」の木々が見えた。以前は、木なんてどれも同じような肌をしていると思っていた。だが、今はそう確信した。ここは確かに「姫水谷」だ。
首を動かしてみると、歌の通り、僕は木の根を枕に、落ち葉を布団代わりに寝ていた。
そして、歌には無かった、強い香りを放つ、白い花が僕の周りに生えている。それこそ、無数に。落ち葉を覆い隠さんばかりに。木の根の隙間からも。木に寄生するようにして。
まるで花に埋もれるような格好で、僕は寝ていたのだ。
それと気づいた時、再びあの子守唄が聴こえてきた。蔦を振りほどいき、やっとの事で首を廻らして声のする方を見ると、リュートの様なものを抱いた女性らしき人が立っていた。部屋着のようにすとんとしているような、ふんわりとやわらかいような、どちらともつかない長い衣服の裾を曵き、その色は、真珠色のように揺らぎ揺らめき、わづかづつ色を変える。
「女性らしき人」としか言い様がなかった。骨格や身体の線からして女性なのだが、輪郭も目鼻立ちもぼんやりとしていて、表情や印象と言うものが、全く読み取れない。
彼女のほっそりとした指がリュートを撫でている。僕が彼女に見とれている間も、子守唄は続いていた。
僕は慌てて起き上がろうとした。さもないと、このまま窒息しそうな気がした。
しかし、起き上がれなかった。
落ち葉が、僕を覆うように押さえつけているのか? 木の根が、僕を逃すまいと絡みついているのか? 木に宿る蔦のせいだろうか? それとも……
僕の夢はそこで途切れた。
○●○ ●○● ○●○
ぽつり、と滴が頬に触れて、僕は目を覚ました。木々の間から、黒い雨雲が見え隠れしているのが、ぼんやりと見えた。
僕は試しに腕を動かしてみた。
あっけなく、僕の右腕は、僕の思うとおりに動いた。
腕の次は手首、指先、足、膝……と順に確認してゆき、自分の体がきちんと動く事を確認した。そしてようやく、今までのは夢だったと、実感できた。その間に雨に濡れても、構っていられなかった。
起き上がってみる。イーゼルは倒れずにそこにあった。やはり僕は、後ろに倒れたようだ。鞄もスケッチブックも、眠る前と同じく、無造作に転がっている。
僕は散らかした画材を片付けた。自分自身もどかしいほど、のろのろとした動きだった。変なところで眠り、雨にたたき起こされた体は、疲労しきっていたのだろう。あるいは、あの子守唄の性だろうか?
時間はどれくらい経ったか分からない。しかしもう、ここの近くの駅を通る汽車はないだろう。日に数本しか、汽車が来ない駅なのだ。
「歩いて帰るしかない、か……。」
呟いて振り仰いだ空は暗く、しばらくは降り止みそうにない。
その上、僕は傘を持っていなかった。
次の日から数日間、僕は、珍しく理由付きで学校を休んだ。
○●○ ●○● ○●○
「真っ当な理由があって休んだとは、珍しい。」
「悪かったね、サボリ魔で。悪いけど、まだ頭に響くんで、喋んないでくれないかな。」
すると彼は僕の要望通り、小さく舌打ちして、小さく呟いてくれた。
「吹奏楽部からテューバ借りてきてやろうか……?」
僕は思わず、分厚い画集で彼を軽く小突いた。もしかしたら、角が当たったかもしれない。
「……殺す気か?」
「滅相も無い。あたら有望な将来の画伯を、こんな事で失う訳には行かないからね。」
「…………。」
「ねぇ、僕なんかにかまけてる暇があるわけ? 君もまだ下書きだったよね?」
「お前が寝てる間に進んだ。」
僕にそれを見せるのが、それ程嫌なのか、鈍い動作で彼はキャンバスを持ってきた。
「……狂った部分とか、間違った部分があったら言ってくれよな。お前の方が巧いんだから。」
しかし、彼の声など、僕の耳に入ってこなかった。
僕は、言葉を紡ぐどころか、息すら出来なかった。
どこが、「粗雑」で、「乱暴」で、「稚拙」だって? まったく、審査員の評価など、アテにならない。
繊細な筆致で丁寧に描かれた部分と、荒々しい筆致で豪快に描かれた部分とが、うまく調和している。これ以上に彼らしい作品は、無いと思った。
着色された絵は、下書きの時とは幾分印象が変わっていた。
犠牲を捧げる司祭の顔には、焦燥の色が浮かんでいる。慌てふためき、新しい犠牲を壇上に載せて、神の機嫌をうかがうような……。
彼に降り注ぐ天窓からの光は、どこまでも清冽な白をしていて、彼を責めたてる様に見えた。手前側の学生達の群像も、どこか怯えた顔つきで、互いに顔を見合わせている。
「……なんで。」
「ん?」
「何で今まで、あんなガキの落書きみたいな絵なんか描いてたわけ? 僕らを馬鹿にしてる?」
僕は絵から目を離せないままで、言った。責めたてると言うには、弱々しすぎる声だった。
「馬鹿になんか……。」
「いいよ。」
何がいいのか、自分でもよく分からずに、彼の言葉をさえぎった。
彼の言葉すら、邪魔だったのかもしれない。
それ程にこの絵は、僕を惹きつけた。
いや、僕だけではないだろう。見る者全ての視線を集めずにいられない絵だ。
一番変わったのは、あの羊だった。
羊は、下書きでは画面の最も暗い場所にいた。着色後も、確かに下書きと同じ、暗い場所にいる。しかし、羊だけが僅かに白く浮かび上がっているのだ。それによって、この絵の主役は壇上ではなく、この羊になっていた。
虚ろな目はそのままで、首からは赤黒い血を流し、床に敷かれた絨毯を汚しながら、僅かに口を開き……。
羊は何を言おうとしているのだろう?
僕はじっと、羊の目を見つめた。
絵の学生達の数人も、同じ様に羊を見ている。その学生達は、非難するような視線で羊を見ている。彼らの目が語る。「お前のせいで」――。
これは俺、と彼は言った。
それは違う、僕は思った。
何だ? 誰だ? この羊は、一体誰なんだ?
神に捧げられしモノ。
聖別された筈のモノ。
しかし、それは神の怒りに触れたのだろう、今は非難の的となっている。
僕は気付く。気付かされた。直感だった。いや、啓示だったのかもしれない。